完甘美の空腹

relish the beauty, sweet, perfect

「卒論を書く」とはどういうことか

世の学生よりも一足先に卒論を提出したので、思うところをしたためるべく再び筆を取っている。これから卒論を書くであろう学生たち、或いは卒論を遠い過去として記憶の片隅に飾っている社会人諸氏へ、卒論を書き終えた一学生としての所見を綴ろうと思う。

先日、友人から「お前はあれだけ自分の論文を『つまらない、つまらない』と言いながら書いていたけれど、自分で読み返す気になるのか?」と訊かれた。なるほど、確かに思い返してみると、本当に「つまらないしもう二度と書きたくない」と思いながら、しかし何かに駆り立てられるように書いていた。

20世紀を代表する社会学者の一人であるニクラス・ルーマン曰く*1、「描くこととは、不自由になること」であるらしい。目の前に白紙のキャンパスが広がっていたとしよう。そこには比喩ではなく、本当に「無限の可能性」がある。画家は熟考の末、そこに筆を置き、色を付ける。すると、何が起こるだろうか。筆を置いただけ、色を付けただけ、たったそれだけで可能性が失われていくのだ。初めのうちはまだ引き返せるだろう。しかし、やがては可能性よりも不自由さの方が勝るときが来る。するともう、あとは完成に向かってひたすらに筆を動かすしかない。つまり、画家は描けば描くほど、不自由になるのである。自由さを取り戻すために、描きかけの絵を捨てることを本気で考えてしまうことになる。或いは、自分の実力の無さに苛まれ、一筆ごとに自由が失われていくキャンパスに絶望するかもしれない。

これはあまりに悲観的な見方だろうか。画家は最後の一筆まで、本当に創発的で自由であるだろうか。私はそうは思わない。というより、少なくとも私は、文章を書くとき、往々にしてこの感覚に襲われる。ただひたすらに完成に向かって、不自由に駆り立てられるような感覚。だから、私にとって「書くこと」とは、いつも無性の喜びであると同時に、苦痛であった。そしてこれは私だけではなく、きっと多くの人にも理解してもらえる感覚ではないだろうか。それに、予期せぬ手先のぶれで意図とは違う方向に筆が走ったとしても、そこから想いも寄らない未来が開けることもある。そういった不確実性もまた、可能性の醍醐味ではないのか。

さて、ここまでは「描くこと」や「書くこと」についての話であって、「卒論を書く」ということの特有の何かについて述べた話ではない。なお私は人文系の学生であり、社会学*2を主題に卒論を書いていたため、もう少し社会学に近づけて話を展開する。

レポート然り、卒論然り、何に取って付けたとしてもそうなのだが、「社会学をする」ということもまた、私にとっては常に喜びであると同時に苦痛でもあった*3

たとえば、何かの資料を集めてデータにしてみたとしよう。量的でも質的でも何でもいいのだが、何かを調査をしてみた。調査をしているときは楽しいかもしれない。上手くいけば、何か「新発見」のようなものを得られるかもしれない。しかし、大抵の場合、手元に残るのは「何」であろう。 おそらく、多くの人の手元には「何の意味もない当たり前の結果」が残るのではないだろうか。

自分にとって興味があることを対象にしてみても、世間的*4な厳しい目で結果を見直してみると、「何の意味もない当たり前の結果」を示したデータの羅列のように思えてしまう。何の為にこんなことをしたのかがわからなくなり、一体誰がこんな結果を見たいのだろう、と悩み出す。そして「私は一体何がやりたかったんだろう...」「そもそも自分って何者なの?」という命題が自ずと生まれることになる。しかし、私はむしろ、これこそが社会学の所為なのだろうと考えている。それが社会学である以上、この「当たり前すぎて何も意味がない」という苦悩に苛まれることからは、逃れられないのだ。

では、それは何故か。答えは単純だ。社会学は「社会」についての学問*5なのだから。たとえば、日常生活における相互関係の在り方を考察したとする。そこから「全く当たり前ではない結果」が導き出されたとしたら、それこそ不可思議なのだ。或いは、もっときちんと考えてみると、次のように言える。社会で生き、社会について考えているのは社会学者だけではない。むしろ、当事者である私たちの方が、その当事者が生きる社会の事情に通じている場合がある。そのような場合、社会学者たちが生半可に何かを語ったところで、何の意味があるのだろうか。「そんなことは知ってた」と言われてしまうのが、関の山ではないのか。

「社会」として当たり前に成立している場面を見ていけば、ほとんどの場合は「当たり前の結果」が導き出されることになる。すなわち、「自分の書いているものに意味はあるのか」とか「何も新しいものが見つからない」という悩みからは根本的に逃れることはできない。この点において、「社会学」とは、無意味さという苦痛と向き合うことを意味するのである。

しかし、絶望する必要はない。喜びを見出し得るのもまた、この地点からであると私は思う。私たちは当たり前の結果を前にして初めて「社会学」をすることができるのだ。「社会学」とはどういう営みであったかを思い出してみると、それはやはり、「当たり前」を問い直す営みなのである*6。その問い直し方は様々だ。「当たり前」だと思われているものが齟齬なく成立しているのは何故か。あるものがどうして「当たり前」のものとして人々の意識に上がらないままで在り続けるのか。当事者たちの間では「当たり前」のものである行為がどのような機能を有しているのか。色々な方法があるが、ともかくこのようにして、私たちは「当たり前の結果」を目の前にリサーチクエスチョンとトライアンドエラーを繰り返すのである。

すると、「社会学」をすることとは、「当たり前」をデータの形で明確にし、その「当たり前」の中に隠された「新奇性」を探し出すことだ、と言えるかもしれない。これはつまり、「データを集めるだけでは何の意味もない」ということを明示している。データを集めるだけではなく、そのデータを前にして、そのものの見方を幾度も変えていく。「こんなつまらないものは早く捨ててしまいたい」「失敗した」「何の為にやっているのかわからない」、といった諸々の苦悩を背負いながら、それでもデータと向き合い、それを何度も解釈し直す。この作業を繰り返すことで、まさに「当たり前に成り立つ社会の不思議さをまなざす」という社会学の営みが可能になるのである。

したがって、データの集め方が上手いだけでは何にもならない。もしかすると、普段接触できないような集団に接触し、そこで見聞きしたことを外部の人間に伝えることができれば、それで新奇性が満たされる、と考える人もいるかもしれない。しかし、それだけでは単なるルポタージュに過ぎない。或いは、当事者の声を伝えることに意味を見出す人もいるかもしれない。だが、それは当事者の代弁者になっただけである。では、新しい資料を見つけ出せばいいのだろうか。否、そもそもあなたがすべきは蔵書整理ではない。これらは、ただそれだけでは意味を持たないのだ。

それゆえ、データを集めること以上に、それと向き合い徹底的に自分の頭を使って考え抜くこと、所謂「まなざす」という過程が重要になる。無意味さへと身を投げ、その中で足掻き、苦しみ、悩みながら意味を磨き上げることができるかどうか。これこそが「卒論」の所為である*7。もしあなたがこのことに気づけなかったのならば、「失敗した」という気持ちを抱えたまま、学生生活という舞台を降りることになってしまうだろう。

ところで、『ちはやふる』という作品をご存知だろうか。『ちはやふる』とは、競技かるたに白熱する高校生たちの青春を描いた漫画であり、大変素晴らしい読書体験をしたという話はさておき、作中*8で国語教師である深作先生が夏休みの宿題だった短歌の秀歌二十選のプリントを配る場面がある。主人公千早の短歌が選出されたことに、千早と同じかるた部の西田らが笑い出す。そんな生徒たちに向けて深作先生が恩師の口癖であったという言葉を送る。

「生みの苦しみを知りなさい 知ったうえで 覚悟を持って人を許しなさい 短歌でも文学でも なんでもです」

末次由紀ちはやふる』十八巻第九十五首

更に、深作先生はこう続ける。

「私の中には たくさんの先人の言葉を受け取って来た宝物があるので それをきみらにパスするために 受け売りをするために 教師になったんですよ」

末次由紀ちはやふる』十八巻第九十五首

生むこととは、苦しみなのだ*9 。それは「つまらない自分」や「ダメな自分」と向き合うことに他ならず、どう足掻いても「苦しさ」や「つらさ」から逃れることはできない。データと向き合うことも同様だ。「自分には能力がないのではないか」や「自分のやっていることは無意味なのかもしれない」といった疑念との戦いになる。襲い掛かるプレッシャーやストレスに耐えかねて、投げ出してしまう人も少なくない。実際、全く立ち向かわないまま「卒論」という名前だけの何かをそっと出してやり遂げた気になる人もいる。或いは、提出できないままになってしまう人もたまにいるし、そもそも「卒論」を書かずに卒業ができる学科すらあると聞く。

しかし、苦しみとの格闘に身を投じてこそ、人は初めて「社会学をする」ことができるのである*10。ゆえに、もし「卒論」で初めてその苦しみと相対した人がいるならば、その人は大学卒業の間際に、初めて「社会学をした」ということになるだろう。その証をもって卒業が出来るのであれば、そんなに素晴らしいことはない。

そして、苦しみの中にこそ、喜びがある。考え続け、絶望を繰り返し、それでも尚考え抜いた先に、ようやく曙光が差す。これまで灰色に見えていたデータが、突然意味のあるものに見えてくる瞬間がある。ここにこそ、無性の喜びがあるのだ。その喜びと出会えたとき、人は「学問をする」という業の醍醐味を知るのだろう。

まとめよう。書くことは苦しい。しかし、苦しみ抜いた先に喜びがある。「卒論」を通じてこの喜びに辿り着いた人は、真に「大学生」という業を卒えた人なのだ。願わくば*11、それを誇りに思って、大事にしてほしい。

  

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William Turner Dannat "Study for "An Aragonese Smuggler""

 

〈関連〉 


〈参考〉

ニクラス・ルーマン『信頼 - 社会的な複雑性の縮減メカニズム』勁草書房

信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム

信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム

 

 

 末次由紀ちはやふる(18)』講談社 

ちはやふる(18) (BE・LOVEコミックス)
 

 

 末次由紀ちはやふる講談社

*1:ニクラス・ルーマン『信頼 - 社会的な複雑性の縮減メカニズム』勁草書房を参照。

*2:正確には「環境社会学」である。しかし、それを志すにあたって必要になる実証性や理論性を養うためにまず「実証哲学」や「論理哲学」を学んだため、本来的な専攻は「分析哲学」全般と言った方が正しいのかもしれないが...。

*3:そして、これは多くの人にとっても多分そうなのだと思う(非凡な方は違うかもしれないが)。

*4:私たちがよく言う、いわゆる「客観視」というものでもある。

*5:ただし、話が長くなるので「社会」とは何かはここでは問わないこととする。

*6:少なくとも私は思う。

*7:そして大抵の人はそれを一人では為し得ないため、偉大な先人たちの肩を借りて行うことになるだろう。

*8:末次由紀ちはやふる』十八巻第九十五首を参照。

*9:それを本気でやったことのない人にはわからないだろうけれど...。

*10:何もこれは「社会学」に限った話ではなく、史学、文学、哲学、理学、工学、建築学、医学など、分野関係なくそれが「学問」であるならば、同じことが言えるのではないだろうか。

*11:そして、これを読んでいるあなた自身も、と希っています。