完甘美の空腹

relish the beauty, sweet, perfect

「若者」と「大人」

ある程度の年月を生きてきて、いくつもの季節を一通り過ごしたその積み重ねの上で成り立ってる、そんな自分の人生の現状を受容している人や、或いは、物事の良し悪しに関わらずその経験の蓄積の上に生きている人は、既に「大人」と形容できるだろう。少なくとも、そういう経験の上に生きている人は「若者」ではないと思う。

「若者」というのは、時間の蓄積の上に自分が生きているという感覚以上に、自分がこれから何者かに変わっていくという可能性や、未だ見ぬ未来の為に生きているという自覚のある人のことを指しているのではないだろうか。今までの実体験の前提に立って、これからの人生を生きていく、或いは生きていかざるを得ない、と認識しようとするその態度は、正しく「大人」的だろう。人生を一定以上歩んで来ると、目の前に広がっている可能性や未来の不確実性を信じるよりも、これまでの出来事や経験の蓄積に基づいて物事を考えざるを得なくなる。

もし、その可能性や不確実性に価値があるとすれば、それらを既に失ってしまった「大人」たちは、「若者」たちよりも価値が無いということになる。得てして「若者」たちはそのように考え、どこか「大人」になることを忌避している節があると思う。「若者」であるうちは、きっとそれでいい。そういう在り方が許されているのだから。では、本当に「大人」には価値がないのだろうか。

なるほど、未だ「若者」である私たちからしてみれば彼らは未来の可能性や不確実性を失った存在だ。しかし、「大人」だからこそ出来ることは沢山ある。「大人」であるということは「自分が何者か」という意識から独立している、つまりその答を得ているのだ。したがって「大人」は「若者」のように流行や自意識に囚われることも振り回されることもない。揺るぎない「自分」が確立しているのだから。他人に対しても他我に対しても、変に気取ることも不要に振る舞うこともない。これまで積み重ねてきた「自分」は、何があっても変わらないのだから。

人生というものは、紛れもない自分自身が、これまで選択してきたことや実行してきたことに基づいてできている。その成果も責任も、何もかもを抱えて、今、ここを確かに生きているのだから。そしてその蓄積による重圧に、身動きだけでなく、自分の未来の可能性や不確実性さえも雁字搦めにされてしまうのだ。

思い返してみれば今までは、やれ親のせいだ、やれ社会のせいだと自分の不幸や至らなさについて責任転嫁のしようがあった。そういった理屈の常套句である「良い学校や良い職場に入ることができればきっと人生が変わる」とか「良い出会いがあればきっと人生が変わる」とかみたいな、他力本願で根拠の乏しい希望に縋って当座を凌ぐこともできた。しかし、これまで自分の選択を長く積み重ねてきて、その結果を受け入れ続けてきて、あるところから自分で歩けるようになった「大人」には、そのような責任転嫁のしようも曖昧な希望に縋る余地も、何も無いのだ。

そんな、後先の変更が効き難く、心身のメンテナンスが絶えず必要で、やり直しができなくなった身の上を生きている彼らに想いを馳せると、「大人」として生きていることに、立派だと、偉いと、どうして私は尊敬するほかにない。

それに、「大人」である程に長く生き続けるということの大変さや意味合いについて、「若者」のうちから悟るのが難しいのは、未だ「若者」の側に片足を残している私たちが一番よく分かっているだろう。

それでもなお、「大人」たちを敬うからといって、「若者」たちを蔑ろにしていい理由にはならない。どちらにも長所と短所があり、またそれが持ち味だったりするのだ。したがって、それぞれがその時だからできること、その時だからやらなければならないことに向き合いながら生きていけばいい。だからたとえ幾つ歳を取っても生き甲斐はあるだろうし、生きる意義もあるのだろうと、今の私は考えている。

これから「大人」になっていく人たちがまなざし、お手本として学ぶべきは、所謂お仕着せの「大人」だけでなく、うだつの上がらない「大人」も、困難を抱えながらも生きる「大人」も、あらゆる「大人」たちを含めてだということを、私たちは忘れているのではないだろうか。本当は、色々な「大人」の在り方が、「若者」から無数に広がる人生の岐路を照らす光明であるはずなのに。

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Odilon Redon "Primitive Man"

 

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