完甘美の空腹

raison d'être

「証明」したい人と「承認」されたい人

 

こちらの記事の続きになります。

 

自己証明は、他人に認められてはじめて完結するはずだ。恣意的な独り善がりの主張による「快さ」よりも、相互承認の方がもっと大きな「快さ」なのだから。それゆえ、それが可能になるためには一方的な証明意思が抑制されなければいけない。人間は他人に押しつけがましい自己証明には不寛容、つまり「不快」なのだ。そのため、証明だけに躍起になっていても、逆に承認は与えられないということを私たちは学ぶ。表現する言葉の文体に気を遣い、姿勢の文体を調整するようになる。

証明欲求と承認欲求はコインの表と裏と言ってもいいけれど、それでも「承認なんてされなくてもいい」という自己証明の仕方は存在する。自分で自分の力が感じられれば、本来はそれで満足なのだ。もっとも幼稚で頭の悪い証明欲だと思う。

人をいじめることによって、自分の力を誇示したり感じたりする人間がいる。人を見下したりいじめたりするのが「快さ」なのは、そのことによって自分の力が感じられるからだろう。その方法でしか感じることができないのだろうと思う。そして相手を屈服させているだけだから、相手から本当に承認されている訳ではない。そんなことはいじめている本人も分かっている。しかし、そんな連中も仲間からの称賛を欲しているのであり、称賛されるとやはり嬉しいのだ。

また、人間の行為で最も醜いことの一つは、浅ましさや恥という観念をかなぐり捨てて、自我の欲望を丸出しにする行為だ。例えば、食べ放題、飲み放題、詰め放題、やりたい放題の「放題の人」。彼らにとっては、他人から承認されることなど知ったことではない。そしてもう一つは、露骨に自分の存在を誇示することだ。言葉や態度や見た目で「私って、どう?」と示したがる「どうだの人」。ただ、多少の自慢話なら、内心で苦笑しながらも聞いてあげるのは会話の基本だ。まだ可愛気があるというものだと思う。

しかし、私もそんなに人のことは言えない。つい調子に乗って自慢めいたことを話してしまい、後になって「やってしまった」と反省することは多々ある。先日も、大学界隈の中では「ウィトゲンシュタインクリプキを誰も知らないだろう」と舐めていたら、学内の友人に「そんなの誰でも知っているよ」と嘲笑、敏捷、失笑、苦笑取り交ぜて笑われ、見事に赤っ恥を書いたことがある。それなのに、その後もまた性懲りもなく同じことを繰り返す体たらく。本当に反省している。

知ったかぶり、見栄っ張り、自慢話は世の常なのだろう。度を越さなければ(これが難しいのだが)、会話のタネや潤滑油にもなる。日常的な会話などは、そのような自慢話や噂話や自分語りが大半なのだから。しかし、露骨な存在の誇示となると次元が違う。自分がいかに権力を持っているか、いかに頭がいいか、いかにすごい経験をしているか、いかに大物であるかを言動で示さないと気が済まないのだが、なぜこれが醜いかというと、そのことによって人が、人間関係を自分の思い通りに(意識的にか半ば強制的に)支配しようとするからだ。その押し付けがましい自我の在り方が「不快」なのだ*1

アイデンティティ・ゲーム ―存在証明の社会学』(新評論)や『人は何故認められたいのか ―アイデンティティ依存の社会学』(旬報社)で、人間の存在証明や承認論について説いた石川准曰く、一人ひとりの人間は「アイデンティティの習合、アイデンティティの束」である、らしい。

そのアイデンティティは、例えばパスポートなどのIDカードにおいては指名、性別、出生日、職業、国籍、顔写真などで示される。もちろんそれだけではなく、それ以外にも「身体的特徴、年齢、性格、経験や肩書、考え方や価値観や美意識、民族や人種や母語、日常的になっている役割や結んでいる関係など、他人から自分を区別する自分らしい独特さのすべてが、「わたし」のアイデンティティを構成する。

石川准 『アイデンティティ・ゲーム ―存在証明の社会学』(新評社)より引用

 今日、「アイデンティティ」という言葉はどこでも聞くようになったが、語られていることは単純にその通りだろう。加えて石川准はこうも示している。

私たちは、「望ましいアイデンティティを獲得し、望ましくないアイデンティティを返上しようと日夜あらゆる方法を駆使する」。それどころか、「存在証明のために人生の大半を消費する」。では、自分の何を証明したがるのか。「私たちが躍起になって証明したがっているのは、『自分がいかに価値のある人間であるか』ということだ。私たちは『わたし』の価値を人や自分に対して証明せずにはいられない。人が存在証明に没頭するのはそのためだ。

石川准 『アイデンティティ・ゲーム ―存在証明の社会学』(新評社)より引用

「価値」とは、人間としての強さ、大きさ、賢さ、優しさ、器、図太さ、誠実さ、寛容さ、といった世間的な価値のことだ*2。けれども、このようなプラス指標は語るに及ばず、阿呆であっても、貧乏であっても、短気であっても、初心であっても、小心者であっても、病気患いであっても、それらマイナスの指標であっても証明の材料になり得る。それこそ、「私は~な人だから」と自分から宣告する人もいる。自分と言う人間の独自性を証明するためには、使えそうなものはどんな些細なことでも取り上げるのだろう。

さらに、石川准は存在証明の内容を「所属」「能力」「関係」の三つに分けている。「所属」とは、家庭、会社、国家、民族、教団、学校などのこと。「能力」とは、英語ができるとか、パソコンができるとか、何かしらの資格を持っている等のことで、また性格や気象も含まれる。「関係」とは、人間関係における役割や間柄のことだ。確かに、自分の所属する学校や会社が世評高く大きければ大きいほど、自己証明度も高くなるのは事実だろう。

ここで私が考える存在(自己)証明の仕方は二つで、それは社会的証明と性的証明だ。石川准が示すところの「所属」「能力」「関係」は社会的証明の範疇であり、「所属」は、外部に対してはそれ自体で証明材料になるが、内部では成員相互の熾烈な証明競争が行われている。「能力」における性格や気性、「関係」の中の私的な関係は性的証明に含まれる。

社会的証明の三要素は、「できる」「わかる」「知っている」だと言っていい。「できる」とは、技能、身体的能力、精神力、判断力、決断力のこと。「わかる」とは、論理的思考力、理解力のこと。「知っている」とは、経験と知識のこと。そんな人間がいるかどうかは別問題として、どんなことでも「でき」「わかり」「知っている」人がいるならば、その人は社会においてきっと怖いもの無しだろう。

性的証明とは、男や女としての自分がいかに(性的に)魅力があるか、ということだ。(性的な)魅力というからには当然セクシーさもその要素に該当するが、これは何も異性間だけのことではない。同性同士の憧憬、競争、嫉妬も性的証明の範疇となる。例えば、男性が好き好む男性像として長渕剛矢沢永吉がいる。彼らのファンにとって、長渕剛矢沢永吉は「男らしさ」の偶像としてセクシーなのだと思う。そしてファンは自分たちも、そのような「らしさ」を証明したいのだろう。

男女に共通しているセクシーさの土台は、単衣に見た目だと言えるだろう。身長、体重、スタイルという外見のバランスであり、また顔や声や仕草も重要な要因となり、若さもそれに含まれる。それらを総合したものが、女性なら「かわいい」であり、男性なら「カッコイイ」である。或いは、女性なら「くびれ」「美脚」「スリム」「化粧」かもしれないし、男性なら「筋肉」「髭」「血管」かもしれない。共通しているのは「髪型」くらいだろうか。

では、なぜ外見に血道を上げるのだろうか。それは、美しいものは見た目に「快さ」であるからだ。禿げや肥満が自他ともに嫌なのは、「不快」とは言わないが見た目には「快さ」ではないのだ*3。このような美醜の感覚、「快さ」「不快」の感覚には言及しようがない。「男らしさ」や「女らしさ」は時代遅れだという人にとっても、この美醜の世界だけは未だに治外法権なのだろう。この世界においては「自分らしさ」さえも引っ込んでしまう。

また、性的証明は年齢に関係なく社会的証明と同等の重要性を担っている。人、或いは世代によっては社会的証明以上に重要かもしれない。人が生きていく上で社会的証明は必須であるが、実際にはそれだけでは成り立たず、そして性的証明は決して無視できるものではない。どれだけ「できる」「わかる」「知っている」人間でも、「あの人は男として(或いは女として)何の魅力もない」と思われてしまえば、ある種それは致命的なのなのだ。「仕事はできるが人間としては無能」という風に判断されてしまっては、誰も彼も立つ瀬を失ってしまう。

「できる」ようになり、「わかる」ようになり、「知る」ようになるための力を証明するには、地味で時間のかかる努力が必要だが、性的証明にはそれが不要である。化粧をして、髪型や衣服や持ち物で自分を装飾すれば、それだけである程度は可能になるからである(ただ、そのためにはそれ相応のお金が必要になるが)。人がいかに外見の自己証明に執心しているかは、街を歩いて周りの人たちを見渡してみればよくわかる。派手なデザインの服を着ている人、派手な髪色をしている人、顔から指先に至るまでびっしりとタトゥーを入れている人、筋肉自慢なのかピチピチの服を着ている人。ペアルックをしている子連れの家族もその家族自体が陳列品のようにみえ、証明欲求がありありだ。

しかし、人は見た目だけで生きるにはあらず、とはよく言ったものだ。なるほど見た目だけで生きられるほど、人生も社会も甘くはない。かと言って、「人間は見た目よりも心だよ」とも思いはしない。どちらも大切だ。見た目は可能な範囲で装飾すればよいのであって、心の美しさが見た目に伴わなければそれは意味を成さない。どんなに(繕った)美しい見た目をしていても、「こいつバカじゃん」と思ったその途端に、その美しさは美しく在る意味を失う。少なくとも私にとってはそうである。口を開けばアホ丸出し、仕草がまるで子供、誰に対しても舐めた態度、独善的で傍迷惑。こんな美男美女は意味がない。使い捨ての「美しさ」でしかない。

心は目に見えないから大丈夫だろうと思って舐めていると、ちゃんと見えるのだ。本当は、人間としての男性、人間としての女性を証明し、そのことをありのまま承認されたいのに、どうしても男か女として、という面が前面に出てしまうのは仕方のないことなのだ。そうでなければ、わざわざ男性である意味、わざわざ女性である意味がなくなってしまう。だからといって実の無い、見た目だけの底の浅い「男らしさ」や「女らしさ」も嫌なのだ。

 

人はなぜ認められたいのか―アイデンティティ依存の社会学

人はなぜ認められたいのか―アイデンティティ依存の社会学

 

 

*1:そして称賛されるのは、本当はその逆の抑制された自我、その究極の無私である。

*2:暫定的にそうだとして。

*3:趣向によっては必ずしもその限りではない。