完甘美の空腹

relish the beauty, sweet, perfect

フロイト的精神分析にみる「快さ」と「不快」

私たち人間は「快さ」を求め「不快」を避けるという「快感原則*1」に従う、ということを明確に示したのはご存知フロイト大先生である。彼の著書『精神分析学入門』に、こんな一節がある。

“私たちは、私たちの「心的装置」の働きに、ある主要な意図が認識され得るかどうか、という問題を立てて、まず大雑把に、その意図は快感獲得にある、と答えておきます。私たちの心的活動は全て快感を求め、不快感と避けることに向けられている。つまり自動的に「快感原則」によって規制されているように思われます。”

フロイト精神分析学入門』中央公論新社

ここでいう「自動的に」とは、「本能的に」ということだろう。ついつい自慢してしまったり、本当は知らないくせに「あ、なんかその名前聞いたことある」と言ってしまったりするときの「つい」である。乳児期の「快さ」「不快」は、身体の感覚に限られていると言っていい。「自己」がまだ形成途中であるから、人間関係における精神的(又は心的)な「快さ」「不快」は、ない。しかし、この身体的*2感覚による「快さ」「不快」はおそらく死ぬその瞬間まで続く。人間にとっては最も根本的な感覚だからである。

身体的な「快さ」は、味わってみたい(味覚)、触ってみたい(触覚)、見てみたい(視覚)、聴いてみたい(聴覚)、嗅いでみたい(嗅覚)、というように五感に依拠している。美味しいものを食べたとき、美しい景色や均整の取れた造形を見たとき、ふかふかの布団に入るとき、温泉に浸かって声を漏らすときが、まさにそうだろう。これらは身体的*3快感である。嗅いでみたいというのはなかなかないかもしれないが、「ああいい匂いだ」と感じることはあるだろう。その反対に、痛いこと、苦しいこと、煩いこと、臭いもの、気持ちの悪いもの、怖いことというのは、たとえ幾つ年齢を重ねても嫌なのである。

社会的関係の中で自我が芽生えてくると、この「快さ」「不快」に、心的な「快さ」「不快」が加わるようになる。幼児はおもちゃを取り上げると泣くし、自分が持っていなくて人が持っているだけでも泣く。園児の段階でも、例えば兄弟でお小遣いの額が違うと、小額をもらった弟はそのことで怒り、自分の方が少ないということで不快になり、その欠如感による「不快」が泣いたり怒ったりという行為になる、と見るしかない。これは明らかに心的不快である。

なるほど、手に棘が刺さったり、タンスの角に足の小指をぶつけたりしただけでもそれは「不快」である。しかし、「刺さってるんじゃねえよ棘」などと怒る人はいない。つい「どうしてこんなところにタンスがあるんだ」と怒ることはあるが、それは自分の不注意に対して腹が立っているだけで、いつまでもタンスを恨む人はいない。それなのに、同じ痛みでもそれが人によってもたらされるとき、その「不快」は痛みが消えた後でもなお持続する。身体的な不快が関係的な不快によって相乗されるとき、そのことは怒りや屈辱の記憶となって、心に刻み込まれるのだ。

自我が芽生えてくると、本能的な表出だけでなく、意思された証明欲求が生じてくる。それは「証明したい」と思うことではない。「思い」としてみれば、「今に見てろ」とか「いいところを見せたい」とか「私だってやるときはやるんだ」といった気持ちだ。「証明」とは、自分の力の開示である。力とは暴力性であり、頭脳の能力であり、運動能力のことだ。或いは身体的な容貌でもあるだろう。人間のするあらゆる行為の根底には、この存在の主張、自己証明への意思があると考えていい。

しかし、人はいつも「不快」を避け、「快さ」だけで生きられる訳ではない。それはフロイトの説く「現実原則*4*5があるからである。自分の力を認めてもらいたい、自分が思うような人間として認められたいという欲求は、期待通りに叶えられないことを経験する。遅かれ早かれ、意思としての恣意的な自己証明が、必ずしも「快さ」をもたらさないということを学ぶ。意思は主張する意思だけではなく、抑制する意思でもあることを知る。それが、社会的な諸関係の中で俗に言う「大人になる」ということなのだから。

 

f:id:imkotaro:20181111203949j:plain
Käthe Kollwitz "Death, Mother and Child"

 

〈関連〉 

 

 

 〈参考〉

ジグムント・フロイト,懸田克躬『精神分析学入門』中央公論新社

精神分析学入門 (中公文庫)

精神分析学入門 (中公文庫)

 

 

*1:人間が快楽を求め苦痛を避けること、すなわち生理学的・心理学的な必要を満そうとすること

*2:生理的

*3:生理的、或いは感覚的といっていい。

*4:本能的・原始的な衝動の解放を、外界の現実に応じて一時延期したり断念したりする自我の働きの基本原則のこと。

*5:なお、これについては別に記事立てして後述する予定である。