完甘美の空腹

raison d'être

『定本 育児の百科』考

こちらの記事の続きになります。

 

人間の創成期である赤ん坊には、本能としての「快さ」か「不快」の表明しかない。赤ん坊の泣き叫びや乳児のぐずりは、存在の生理的不快の現れと見て取ることができる。それは意思による表明でも主張でもない。ただ生理の不快によって泣いてしまうのだ。泣いて、周囲に不快を思い知らせたいのではない。知らせたいという意識はない。ただ泣くのだ。「快い=笑う」と同じように、「不快=泣く」というごく自然な営みとされていると考えるほかにない。

松田道雄『定本 育児の百科』(岩波文庫)にて、赤ん坊が泣くことについてこんな記述がある。

夜泣きは、早い子だと生後2、3週ごろから始まる。「顔を真っ赤にして、力いっぱい泣く」。よく泣く子は抱き上げると大人しくなるが、下に置くとまた泣く。なぜなのか、理由は書かれていない。「抱き上げでもしなければ、泣き止んでくれないほどの泣き虫なのだ。泣き虫は抱いてやる方が早く治るのだから、抱き上げてやる方がいい。」そもそもなぜ「泣き虫」になったのか、その理由も書かれていない。「空腹のために夜泣きをするというのは、実際少ない」らしい。「昼間の運動不足」とか「悪夢」が理由として考えられているが、それでも「真性夜泣き」とでもいうべき「頑固な夜泣きの原因は、よくわからない」

松田道雄『定本 育児の百科』(岩波文庫)より引用。

 つまり、なぜ赤ん坊が泣くのかはわからないのだ。それはそうだろう。大人だって、自分がなぜ泣くのかわからない。悲しいから、というのは理由にならない。同じ松田道雄の『私は赤ちゃん』(岩波新書)には、こう書かれている。

生まれて三日目。「私(赤ちゃん)はやかましいのがいちばんきらいだ」「静かにさえしてくれれば、私はおむつのぬれた時と、おなかの空いた時しか泣かない。おしめカバーも「暑い日は苦しくてしようがない」。

 松田道雄『私は赤ちゃん』(岩波新書)より引用

実際には赤ん坊に訊かないとわからないが(訊いてもわからないだろうけど)、濡れたおむつを取り換えたり、ミルクをあげたり、あやしたり、静かにしたり、快適な温度にしたりすると、泣き止むことが多いことから、こういうことが原因だと考えられるのだろう。要するに赤ん坊が泣くのは、とにかく自分一個の身体が「不快」だからだろう。赤ん坊が泣くのは存在の主張ではない。言葉では伝えられないから、不快だから、ただ泣いているだけなのだ。「不快」な自分の状態を認めてくれといっているのでもない。

二歳くらいの幼児になると、すこし様相が変わってくる。ちょっと憎たらしくなってくるのだ。「ご機嫌を損じると、暴れ方も激しい。畳の上のあおむけになって手足をばたばたやって怒る子もある。物を投げつけることも覚える。」「自分のものと言う意識が強いので、おもちゃに相手の子が触ると、怒って自分で抱え込んで離さない。」「子どもが自立と依存との間をふらふらしているのが、1歳6か月から2歳までの特徴」「子どもが、駄々をこねるのは、子どもの自立に適切な場が与えられていないためだ」「おもちゃはただ私有物であるという考えしかない子は、おもちゃが他人の手にあることを我慢できない」 

松田道雄『定本 育児の百科』(岩波文庫)より引用。

これを、「自立」とか「私有物であるという考え」と考えるのはどうなのだろうか。2歳前後の幼児には適切な用語だとは思われない。赤ん坊の泣き声はまだ我慢できる。自我が無いからだ。つまり無意識だから、ということ。

しかし、二歳ぐらいの幼児が泣き叫ぶのはちょっと我慢ができない(我慢するけど)。既に片言を話し、自我の萌芽があると認められるから、その泣き喚きは聞き分けのない理不尽であり、故意にやっているのではないかと思ってしまう。まあこれが、全身を震わせて力いっぱいに泣き喚く。それにしても「泣く子と地頭には勝てぬ」、とはよく言ったものだ。過失はまだ許せるが、故意は我慢がならない。そう考えると、子供をつい力で捻じ伏せようとする親の気持ちがわからなくない。泣き叫ぶ子を残して、スタスタ歩いていく振りをする親の気持ちもわからなくない。一瞬、子どもを捨てたくなるのだろう。

もちろん幼児の自我はとても原初的なものだ。未熟で、不快を抑えることができない。従って故意も悪意も何もない。まだ「自立」も「私有物」の意識もないはずである。ただおもちゃが自分の手の中に「ある」か「ない」かの意識の違いがあるだけだろう。そして、「ある」ことは「快さ」であり、「ない」ことは「不快」なのだろう。単純に、「充足」と「欠落」の感覚があるだけだろうと考えられる。自分が何かしらの「物」を持っていても、別の「物」を見つけると、それが欲しくなる。関心が、自分が持っている「物」から、他人が持っている「物」へと動くのだ。「ある」ことの「快さ」よりも、「ない」ことの「不快」の方が強いのだ。

私たちだってそうだ。既に手に入れた「物」はもう欲しくない。あれほど欲しかった一眼レフカメラも、ブランド物の革靴も、全国大会への出場権利も、手に入れてしまえば、もう欲しくなくなるではないか。だって、もう持っているのだから。そうしてまた別の「物」が欲しくなるのである。これが保育園や幼稚園に行く頃になると、かなり明確な自意識ができるようになる。「私有物」の意識もあるだろう。私が園児だった頃、自分の悔しい気持ちを、「悔しくなんかないもん、平気だもんね」と粉飾する意識があったことをはっきりと覚えている。

確かなことは、人は本来的に「不快(苦)」を避けるということである。そこから、もし目の前に「快さ(楽)」と「不快(苦)」があれば、「快さ(楽)」を選択するのは、全く自然な行為である、ということだ。私は赤ん坊や幼児の、この「不快=泣く」という在り方を、人間の自己証明の原型ではないか、と考えたのである。大人になっても、理不尽な出来事に遭ったり物事が思い通りに運ばずイライラが堆積すると、大声で叫んだり、周囲の人や物に八つ当たりしたり、手当たり次第の何かで発散するように、人間の感覚も身体も精神も、また関係も、「快さ」を安定させようとする恒常性(homeostasis)が常に作用しているのではないだろうか。

一人で部屋に閉じこもったり、集団の中で一人黙っていたり、反論があっても抑えたりすることは「快さ」ではないのである。絵を描けば見せたくなる。文章を書けば読ませたくなる。お気に入りの服を買えば、着て外を出歩きたくなる。それは「快さ」だからである。それだけでも気分はいいのだが、それが人から認められると、「快さ」は一層に輝きを増すのだ。

 

 

定本育児の百科 (岩波文庫)〔全3冊セット〕

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私は赤ちゃん (岩波新書)

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