完甘美の空腹

raison d'être

「祈り」について

祈るということが、とても難しく感じることがある。

祈るということ、それは何か超自然的な力に何かをお願いすることでは必ずしもない。むしろ、それは自分を自分足らしめている何らかの働きと向き合うことなのだと思う。何と向き合うかは、人それぞれ異なるのかもしれないし、あるいは共通の父なる神が存在しているのかもしれない。この、「向き合う」という行為において、意識と感覚とが乖離し混乱するなか、自分がどこか注意の及ばないところへ拡散していってしまうような感覚を覚えたことがある。神の臨在を肌の向こうに感じ、「~(名前)よ。汝は今、何処にいる?」というその呼び声を耳にしつつも、それに応えようとする自分の不在という混乱、主体の喪失。この頃になって坐り始めたのはそういう信仰上の混乱からだったのかもしれない。自分自身の真実が叫ばなければ、祈りはきっと聞き届けられない。だから今日も坐るのだろう。自分の中の真実を揺り起こすため。

練習、訓練、鍛錬、その前提にある腹の括り具合、さらにその奥にある揺るぎない信仰。そういったものに裏付けられるものはおそらく「祈り」だ。しかし、「人生には明らかに意味も目的もない」ことと「人生を何とかやっていくこと」は全く別のそれぞれ独立した話なので、それらを繋げて「本当のこと」と断じてしまうのは早計だろう。これが強者の理論である自覚も、恣意的に押し付けている暴論である自覚もあるのだが、受け入れられるかどうかを思案してなお恥ずかしさに負け、素直に口に出せないくらいの「考え」は、「信仰」にまで至れないものだと思う。あなたが考える「正気」の範囲や程度をどこに設定したとしても、「信仰」はどのみちすべてがその埒外にあると定まっているからして、その場その時のマジョリティからマイノリティとして扱われるのは道理でしかない。ここにおいて恥はマジョリティのツールであるから、捨ててしまうのが賢いだろう。例えば、独我論は原理的には世界で唯一の自分のみに「正しい語法を使用している」という属性を付与するが、これはある意味で正しい。はじめから客観というのが自分しかないのだから、そうせざるを得ないのだ。ただ、最近になって信仰に客観は必要ないのではないだろうかと思うようになった。どのような文脈で仰られているかに関わらず、信じる「それ」が曖昧であってもなお、信仰は成立するのだと私は思う。

祈るということは、たとえ何の役に立たなくても、それだけで美しい。人々が祈っている姿から宗教らしい気持ち悪さや嫌悪感が垣間見えるというのはわかるが、それは人が皆それぞれ自覚的に祈っているということでもあるから、つまり素晴らしいのだ。祈りというものは、意味は一切無く価値も塵屑で無責任で全くの無力なのに、圧倒的な美しさがあり、そしてそれが万人の指先や向き合うところに確かに在る。祈るということについて感じることも思うことも考えることも沢山たくさんあるけれど、それが美しいものだという意識は自分の中で決して揺るがない。自分が「美しい」と感じたものを美しさ以外の観点から疑う姿勢を私は持ち合わせていないので、やはり「祈るということは美しい」という感覚は確固たるものだ。そして私の中で「表現」に対する姿勢と祈りに対する姿勢はおそらく殆ど同一のものになっている。好きなものは好きだし美しいものは美しいという、ただそれだけのこと。何かを好きになったり美しいと感じたりするということは、きっとそういうことなのだと思う。

そして、祈りは結晶化するから目に見えるようになる。それを信じることがつまり信仰であると思う。まずはそれを信じるところから始めるのがいいかもしれない。

では、祈りと願いの違いは何だろう。字義的な差で分ける(区別する)ならwishとfaithの違いだろう。しかしこれでは情緒も何もないと思うので、敢えて私的な補足をするのであれば、私は祈るということを「主に自分の力が及ばないことに対して向けられるもの」という解釈をしている。さらに言うと「どうしようもないもの、客観性が全くないもの、願っても仕方のないものに対する願い」は私の中では高位な「祈り」に分類される。例えば、「死ぬと生まれ変わる(輪廻転生)」と説く仏教徒はおそらく自分でも何を言っているのか分かっていないと思うが、やはり意味の無い言葉を信じるのは高度な祈りだと思う。真言箴言や呪文などは、最初から客観的な意味を持たない音列、というのがまた祈りらしい。つまるところ「願い」は未だ言語化できそうな範囲に収まっているように感じるが、「祈り」は言語化不可能な領域に及んでおり、その境界線の辺りで波打ちながら所々が言語化されるに至っているという印象だ。そういう意味で「祈り」は「詩」「現代詩」と共通する性質を持っているのかもしれない。

これ程まで高度に祈れると宗教的といっても過言ではないだろう。ただ、これも私的な意見だが宗教は徒党を組んでするからダサいのだと思う。宗教こそ、ぜひ個人単位でやってほしい(キェルケゴールはこのことをよく理解していた。ただキリスト教ではなく私的宗教へ祈っていたらなおよかったと思う)。また、そういう意味では祈るという行為に芽生える感情(感覚)に価値を認めることで、祈りが成立するという解釈もできるだろう。「感覚における言語での語り得なさ」が祈りの諸要素の1つだとすれば、言語は客観性そのものであるから(共同体抜きには存在しない)、感覚そのものもそうであるし内容の語り難さもまた主観的なものだと考えられる。そう、感覚や意識というものは客観的ではない。高度に客観的でないものに意識を向けると祈りとなる。また、高度に主観的なものに信頼を寄せる行為を「祈り」と呼ぶ。

何の役にも立たないということは確かに祈りにとっては重要な要素だが、祈り自体が意図せず精神安定に役立ってしまうのは果たしてよいことなのだろうか。分かってやっているのはどうかと思ってしまう。そういう意味では、「自殺」は祈りらしいのかもしれない。すると「祈る」という行為はつまり消極的な自殺とも見て取れるのではないだろうか。

 

「何処へ向かうのか?」「何を齎すのか?」

そんなことを考えながら今日も祈る。

さあ、美しいものばかりを魅せておくれよ

f:id:imkotaro:20180515114032j:plain

Joshua Reynolds "The Infant Samuel"