完甘美の空腹

relish the beauty, kindness, perfect

証明と承認

imkotaro.hatenablog.com

こちらの記事の続きになります。

 

私は、人間の言動の根本的な動機は、それが無意識であろうと意識であろうと、ほとんど全て1つの欲求に起因しているのではないか、と考えた。それは、自分という存在を一人前の、或いはそれ以上の、価値ある/尊重されるような人間だと、他人に認めてもらい、そのことで自分でも自分をそのような人間であると認めたい、という欲求である。人間の世俗的な望みや願いや期待は実に様々であるが、この承認への欲求はそれらの欲求の根底にある人間にとっての最後の欲求ではないだろうか。

家族が大切だというのも、誰かにモテたいというのも、社会で出世したいというのも、有名になりたいというのも、自慢とするのも、自分の身を着飾ることも、ダイエットをするのも、バイクに乗って暴走をするのも、全てこの承認欲求で綺麗に説明が付くと思う。例えばどんな欲求でもいい。「~がほしい」「~としたい」「~になりたい」という世俗的な欲求は、最終的には他人から「よくやった」「すごいね」「ありがとう」と認められ、自分でも「よし、やったぞ」「自分はできた」と認めたい、ということを意味している。「あの人は嘘をつかない」「彼/彼女は信用できる」「大した人間だ」という人間的な評価も同じことだろう。なぜなら、これらの他者承認と自己承認がもたらしてくれることは人間にとってこの上なく安定した精神的な「快さ」なのだから。

その反対も同じことだ。私たちはなぜ嫉妬するのか。なぜ恨みを抱くのか。なぜ人を見下したくなるのか。それは、他人は称賛されるのに自分は無視されることの、或いは自分を否認されることの、或いは自分は他人より勝っていると思いたいのにそう思えないことの、不全感があるからである。自分が認められなかったり否定されたりすることは、この上なく「不快」なのだ。承認欲求とは、つまるところ自分という存在への尊厳欲求なのだ。人に認められるように行動し、否認されることを避けるように行動することを承認原則といっていい。

この承認原則の有効性は、今現在においても基本的には失われていない様に思うし、それが人間の最後の欲求であることにも変わりはない*1だろう。しかし、「~がほしい」「~をしたい」「~になりたい」という最初の欲求は、承認原則と同等の意味の重さがあるのではないだろうか、と考えるようになった。それは決して最終的な自己承認に到達するためのその場凌ぎな欲求ではない。「~がほしい」「~をしたい」「~になりたい」という欲求は、いわば「私という人間はこういう人間である」という、自己証明の欲求なのだ。

なぜ人は自慢したがるのか。なぜ人は威張りたがるのか。自分は強い、頭がいい、面白い、優しい、運動が得意、仕事ができる、と見せたがりそう振る舞うのはなぜか。なぜ人は何でも自分の思い通りにしたいと思うのか。思い通りにならないと、なぜ「不快」に思うのか。承認原則の前に、或いは承認原則の裏にある、「自分はこういう人間である」という自己証明欲求が、人間の言動のもう一つの行為原則だからである。私たちは、ほとんど本能的に自分という存在を人に見せたいのだ。いざ自分の安定が崩れそうになると、たとえ人から認められなくても、自分の存在を主張してやまない、という部分を人間は少なからず有している。

私たちは人と会話しているとき、「うんうん、そうだね」「あ、それ知ってる」とつい口にしてしまう。そのことについて知らなくてもいいし、知っていても黙っていればいいのに、私たちはそれを言葉に出してしまう。「こんなものの一体何が面白いの?」「この服、どう思う?」というのも同じことだろう。相手がどう思っていようと、存在を主張するということは本能的な「快さ」なのだ。

「快さ」を求め、「不快」を避けたいという根源的な欲求は、生きている限り、きっと消滅することはない。安定した自己承認が人間の最後の欲求であるなら、存在の自己証明は最初の欲求だ。自分という人間は誰にも引けを取らない尊敬される人間である、と表明したがる欲求としての「証明原則」と、その通りだと他者に認めてもらい、自分でも自分をそのように認めたいという欲求としての「承認原則」、この両者の欲求が合致すること以上の「快さ」は人間にはない。だから逆に、「あなたは~な人間だね」と言われて、それが気に入らなければ「いや、そうじゃない。私は~だ。」と対抗する。たとえ口にしなくとも、そう思ってしまう。自分の証明期待に反する人間だと思われたり、そのような扱いをされることは、この上なく「不快」なのだ。

 

 

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東京都庭園美術館『装飾は流転する』展 山縣良和 ≪インバネスコート≫「After Wars」2018年春夏コレクションより

 

続き→『定本 育児の百科』考 - 完甘美の空腹

*1:仏教では他者と自分を比べる「慢」という煩悩は、阿羅漢という悟りの最終段階まで消えず、人間は怒りも性欲も失っても他人と自分を比べることだけはやめられない、と理解されている。