完甘美の空腹

raison d'être

自尊心

私たちは、人に認められるために生きている訳ではない。幸か不幸か、この世の中に生まれてきた以上、誰に認められようと認められまいと、まっすぐな精神をもって自分なりの生涯をなんとか全うすることこそが、「生きる」ということだと思う。

しかし、私はこんな、腑に落ちない、生温い答えには満足できやしない。「まっすぐな精神」って、何?「全うする」って、どういうこと?こんな、面白いのか面白くないのかもわからないような地味でフワッとした答えには納得できない。納得したくない。何よりそんな答えは魅力的でない。

夢を追い続けること、あるいは自己実現のため、幸せになるため、成功するために生きるのが人生ではないのか。誰もが羨むような、輝かしく楽しい、瑞々しく充実した生活こそ真の人生ではないか、と言いたい。

単純に望まれているのは、「手応えのある」「価値ある」人生だろう。「価値ある人生」とは、それが普遍であれ特別であれ、多くの人が認め、多くの人が欲することによって成立する。どういう訳か、世の中の大半の人が結婚して家庭を築いているため、家族は「人並み」という「幸せ」の象徴となっている。これが普遍性だ。数億円の収入があり、家族ともども人もうらやむような裕福で豪華な生活を手に入れると、「人並み」の家族の「幸せ」を凌駕することができる。これが特異性だ。

人が疎らにしかいない寂れた観光地に行くと、時代や世間から外れたような、貧乏たらしくも惨めな気持ちになり、また京都やディズニーランドのように混雑した人気のある場所に行くと、自分もその一員なのに「なんでこんなに貧乏人が殺到しているのだ」と思いつつも、そこに自分も参加しているという安心を感じて華やいだ気分になるのも、おそらく同じことだろう。なるほど、より多くの人が関心を持ち、評価し、認め、欲しているものは「価値」があるだ。

私たちは、人に認められるために生きている訳ではない。当然のことだ。人の視線の中で生きるなんて馬鹿げている。しかし、この世の中に生まれたときから、あらゆる評価に晒されていることもまた確かな事実だ。それに、人から褒められると、これが何故だかどうして嬉しい。自分の「価値」を認められた、と思う。逆に、人に貶されると、これまたどうして不快だ。自分の「価値」を否定された、と思う。

私たちは「評価」から逃れることはできない。感覚や理性は差異を認識し評価をするからだ。人やものを見るとき、私たちはその好悪美醜といった差異を認識し評価している。つまり、私たちは評価する存在であると同時に、評価される存在なのだ。

証明欲求と承認欲求は自然感情としての「快さ」を求めるため、ほとんど本能的といっていいだろう。だから、敢えて非難する必要はない。ところが、この本能以上にもっと「快さ」を過剰に求めるあまり、「不快」を他人に、その責任をも全て他人に、となると、人間はその途端一気に醜悪なものになってしまう。

人間が「快さ」を求め「不快」を避けるのは自然だが、過剰に証明したがり、過剰に認められたがることは本末転倒だろう。「快さ」を求めすぎて、そのために他人を利用したり、他人の評価に一喜一憂して自縄自縛に陥ったりしかねないからだ。それは「快さ」の独り善がりであり、また「不快」を撒き散らしていることに過ぎない。他人の上に立たないと気が済まない「自分」になってしまう。

人から何と言われようと、どう思われようと、「自分はこれでいい」「やるだけのことはやった」と自分で自分を認める適切で適度な自己承認が必要だと思う。「自分」を証明し、「自分」を認めてもらいたいなど、きっと意味のあることではない。自分の「何」を証明し、「何」が承認されるのか、だ。それはおそらく、「いい仕事」や「いい関係」への意志だと思う。そして証明や承認は求めるものではなく、あくまでも結果としてもたらされるのだ。

もちろん、それでも自己承認は揺らぐ。揺らがない自己承認なんてない。だからこそ、何度でも強く打ち立てなければならない。人から認められるのは嬉しいことだけど、それよりも重要なのは「自分はこの仕事でいい」「この人がいちばん」「この生き方でいい」という自分だけの意味を自分自身で認めてあげること。それは自分に執着するためではない。他人に振り回されないために、だ。そして、できることなら、いつかこの自己承認をも越えたい、と思う。

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Edvard Munch “The Sun”

 

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