完甘美の空腹

raison d'être

「今、ここ」を生きる

思うに、幸福とは、生きており、そこからさらにもっと生きていようとすることであって、生きていることの「条件」とは全く違う。「生きる」ということのなかに「強度の差異*1」があって、「生をより強く感じられる生き方」がある。植物や動物や、生きているもの(生物)に感じるのがそれだ。道端の草花を見てはっとしたことを、振る舞いに、言葉に、思考に反映させ、諸感覚の快さをよろこびに転換するということ。

なるほど、病気であったり、家族と別れ離れになってしまったり、お金がなかったりすることは不幸だ。人々は幸福と不幸の関係を「欠如の差異*2」として捉え、健康や愛やお金を求めようとする。しかし、それらは「不幸ではないこと」にすぎず、幸福であることとはまた異なっているのだ。

それでも、やはり健康は大事なのである。例えば、身体の機能が停止してしまえば死ぬのだから、「わたし」が生きているのは「健康などで示される身体の状態に拠るものではないか」と考える人もいるだろう。しかし、私は「生きている」や「存在している」と意識するよりも前から、確かに生きている。それは、生きているものを生かしていると仮象された「魂」や「生命」や「自然」や「宇宙」のような存在のことではない。「わたし」や「物事」はその本質やそれらが存在する条件無しに既に生きているものであるから、「わたし」であり、「物事」なのである。

「生きることとは」や「生命とは何か」とかいう問いは、哲学や倫理において思考される大きなテーマであればその限界でもあって、「生きること」や「生命」のような、自らのそれ以前を語ろうとすると、言葉は意味を失ってしまう。それは進化の物語にせよ、宇宙の物語にせよ、夜空の星々が「今」、何億年、何十億年もの遠い過去の「いま」を見せているように、「いま」のうちでのみ想定される他の諸々の「今」なのである。そうした多くの「いま」は、目の前にあるたった1つの「今」よりも、多いという訳でも大きいという訳でもない。ただ言えるのは、「わたしは生まれてきた」ということだ。どんなことも、「今、ここ」を生きている私たち以上に遡ることはできず、「わたし」は本性的に「いま」語られる、「今」を超えた物語の中では決して安住することもできない。

それなのに、世界では、あたかも生を超えた全体があり、それを分ける要素として生と死があるかのように語られてきた。論理は同一性を前提して、生と死を、「反対物の差異*3」とするような類に捉えさせようとする。しかし、一方が存在であるならば、その反対である他方は非存在であるからして、生の反対物と考えられる死は、生を存在とするのであれば非存在でなければならない。

さりとて、誰も死んだことがある訳ではなく*4、誰も死が何であるかを知らない*5。生と死は、しばしば存在の言葉によってその差異がすり替えられたり、捏造されたりするが、私たちはあくまで生きているのであって、私たちはどこまでも生のなかにしかいない。そして死もまた生のなかにあって、生とは異なったものという形でしか経験されていない。差異は存在の反対物ではないのだから、非存在でも無でもない。生とは死なないことではなく、場合によっては「死にもの狂い」でもあることであるから、死は生きることの一部を含んでいるのだ。

私たち人間が死を恐れるのは、「永遠」という経験したことのないものの夢想に取り憑かれるからであろう。だが、生に本当に対立しているのは、死ではなく、諸器官である。生きようとするまさにその時に、それぞれの器官が個別に感覚し、勝手な向きに振る舞おうとして、身体は調子を狂わせ、生をちぐはぐなものにしてしまう。死のような差異は、特異な差異であるのだから、どんなに年齢を重ねようと、物事の差異の様には理解しがたい。若者は老人を「より死に近い」と考えるが、より多くの年月を生きているということは、死んでも構わないという理由にはならない。死んでもよい人などいないのであって、若者であれ、老人であれ、生と死のその間には特異な差異があるだけなのだ。したがって、死が何であるかというのは、生によって意味付けられることでしか与えられ得ない。私たちは生から外に出ることはできないし、そうした外側は虚妄でしかない。生の外を考えることは、世界の、宇宙の外側について考えることと同様に、考えているという振る舞いに過ぎない。

その一方で、若者にとって、老人はなるほど自分たちと「同じ人間」ではあろうが、彼らにには歳をとるということの意味が分からない。老人はそれを知ってはいるが、既に若者のもつ無謀さや諦めの悪さを、回想としてしか感じられない。多くの若者は年寄りの寛容さを弱さとしか見ることができないし、年寄りはあとで獲得するであろうものを通じてでしか若者を評価することができない。若いか年寄りかは年齢の数の大きさの序列によって規定されるものではなく、彼らは「もはや」や「いまだ」というアイオーン*6の特異な差異を通じてしか、お互いに出会うことはできない。

それは年齢の差異ばかりではなく、こうしたことは、正常と異常、健常者と身障者、理性と非理性についても言えることだし、男女の差異についても同様に言えることだろう。ひとはそれぞれ、他の人が時間を通じて「おなじ人間である」こと、また「わたしとおなじ人間であること」を夢見合う。だが、その「おなじ人間」がどういうものかといえば、それぞれが自分自身の経験でしか参照できないのだから、どこまでいっても客観的、或いは普遍的なものにはなり得ない。もし異常と見える人がいたとして、自分がその反対物である正常であるということにはならないし、自分が異常であるとすれば、正常であるということがどういうことであるかは分からないのだ。

男性と女性の差異について考えるときも、誰もがそのいずれかでしかないのだから、女性は男性にとっての女性でしかなく、男性は女性にとっての男性でしかない。男性が男性にとっての女性を「おなじ人間」として比較するとき、その「人間」のモデルを自分の経験からしか得ていないのだから、社会から「自分のあるべき姿」として与えられている男性像と比較して、しばしば女性を感情的とか受動的と判断してしまう。さらに言えば、情があるとか情が無いとか、依存的とか自律的といった対比をそのまま男性と女性の対比に持ち込む二項対立的な思考の人もいる。その反対に、それらを「おなじ人間」の、男女に限らない特性だとする近代主義的な思考の人もいる。だが、そのいずれも正しくはない。情と無情の差異、依存と自立の差異は、あたかも男女の差異のようにして、「おなじ人間」とされるものを分かつ、男女の性とは別の、それもまた性の差異(本性的差異)であるほかにならない。

「情」が人間本性であると思っている人は、無情な行動をする人がいるのがどうしてか理解できないが、それと同様に、無情な人は情について理解できず、ただ経験から、「情があるように振る舞わないと拙い」ということを学ぶ。無情な人を、器質的な疾患や幼児期の家族関係や発達障害によって説明しようとするすべての理論は、その理論によって語られる「おなじ人間」というドグマを「欠如の差異」によって正当化しようとしているだけなのだ。本当に情のある人ならば、ある意味での日本的道徳として、無情な人を非難したり無理に矯正しようとしたりする「情の無い」ことはしないであろう。

したがって、どのような性をもつ「わたし」にせよ、「わたし」が「おなじ人間(わたしたち)」に融合されてしまうことはないし、「人間」が消えて「わたし」だけになることもない。そのように感じる経験は、「わたし」の存在を主題にする存在論的な夢想であって、「わたし」は「人間」の肯定でも否定でもなく、そこに矛盾*7弁証法*8や抑圧*9がある訳でもない。にもかかわらず、「わたし」と「人間」の特異な差異を忘れ、「わたし」と「人間」とを想像上で融合させる人々がいて、また人間と非人間の空間的差異を主張するようになる。それが西欧近代で「道徳(humanism)」と呼ばれてきたものだ。

とはいえ、「非人間」とは何であろうか。人間の姿をしながら公の場から追放された被差別階級、家畜と同等の扱いを受ける奴隷たち、すでに死んでいて襲い掛かってくるゾンビ(人間)の群れ、或いは病院に収容されるべきと言われる精神病者たちのことだろうか。このような人々を産み出すのは、同一性の人間観である。或いは、言いなりになって体を提供する家畜たち、食欲だけにかられたケモノの群れ、機械のように集合的に動き回る昆虫たち、人間を化かす怪しい生き物。しかし、それらもまた、人間たちによって、人間だと認めたくない異なった人間たちの様子が、動物や虫に投影されているのでなくて何だろうか。

近代の人々は、人間は理性的であり、動物たちはどうでないと前提して、動物たちを分類し動物園に展示してきた。だが、動物園以外では、大多数の動物たちが食べたり食べられたりする関係の中に入り混じって生きており、人間からすると家畜化されるか、敵対するか、或いは保護されるかというように人間生活とも入り混じって生きている。しかし人間も、「生殖がコントロールされている」という点では同様に家畜であり、敵対するか保護されるかの関係のなかにある。それゆえ、動物たちとその相互関係が何であるかというのは、その人間たちとその相互関係が何であるかの反映なのだ。

人間理性に関しては、デカルトホッブズが、ひとが「自分にそれ以上のものを求めないこと(自分の判断がひとよりも正しいとみなすこと)」を以て理性が公平に分有されている、と主張していたのだが、その事実は「公平さ」を根拠付けているのではなく、人間の「ひとは悲惨な結末になるまでは自分の愚かさに気づかない」という本性を示しているだけのように思える。

それに、愚かさというのは人間の本性だ。人間は動物との差異において、「人間が優秀」とか「地上の支配者」とか「尊い」などという自己認識をもつのだが、それはつまり「動物たちが卑しく、人間と比べて劣っていて、支配されてもよいものだ」とみなしたいという本音の建前にすぎない。言葉の上では「人間も動物である」と語る人は多いが、実際に人間が何かの動物の一種であったとして、動物のようでなければ食事もできないし、セックスもできないし、争うこともできないということを忘れたいあまり、動物を引き合いにしているのだと思う。それに対して、ソクラテスが求めていた「賢さ(知恵)」は、多くの「愚かではないこと」を「善なるもの」として付けられた仮称にすぎないが、それは何かを引き合いにすることもなく、特別な差異に率直に向かおうとする諸々の振る舞いのことだろう。

簡潔に言ってしまえば、「幸-不幸」、「生-死」、「老-若」、「男-女」、「善-悪」といった差異はみな、「特別な差異」だ。それなのに、人は生と死を、また人間と非人間を反対物の差異で捉え、幸不幸を欠如の差異で捉え、老若男女を人間の同一性のなかで、美醜尊卑の差異のなかで捉えてきた。しかし、もとより美醜尊卑は人間に適用されてきたものであるから、美醜尊卑をそれぞれ対立する2つの項として、その間を段階的な差異によって整理するとすれば、標本を作ったり、治療をしたり、歴史を書いたりするときには役立つが、快さに囚われ、美しさを感じ、尊さに憧れる人にとっては、何の意味もない。美醜も尊卑も、物事(ものごと)への触発を意味しているが、そうした対立する言葉の一方を口にした瞬間に、そのもの(物)は本来の形を失い、触発によって物語(もの語り)ではなく、一つの「事実」に終わってしまう。

「生-死」、「老-若」、「男-女」、「美-醜」、「尊-卑」のような、人生において否応なく遭遇する対立物は、唯一で同一的な人生を教えようとする存在論的な教説のなかにおいては「克服すべき差異」なのかもしれないが、そうした救い、或いは政*10が必要とされるのも、それらが本当は特異なものであって、私たちが生きていくなかで辛抱するしかないものだからである。むしろ、私たちが思考するのは、そうした差異をどうすればそのままに受け容れることができるのか、というところからきているのかもしれない。

 

 f:id:imkotaro:20171222193926j:image

国立新美術館 安藤忠雄展 『光の教会

*1:ジル・ドゥルーズ『差異と反復』より

*2:アリストテレス形而上学』より

*3:ジャン=マリー・ギュイヨー『義務も制裁もなき道徳』より

*4:エピクロス『認識論』より

*5:ソクラテス無知の知』より

*6:古代ギリシア語でAeon 期間,永遠,時代,世紀という意味 ここでは「世代(期間)」が適当

*7:アリストテレス的矛盾 『オルガノン(論理学)』より

*8:ヘーゲル弁証法精神現象学』より

*9:フロイト的抑圧 『精神分析学(抑圧理論)』より

*10:まつりごと