完甘美の空腹

relish the beauty, sweet, perfect

「言葉」という言葉

これまで「言語とは何か」という問いについて語ってきたが、述べてきたことを踏まえると、それはあっさりと答えられるような問いではない。

というのも、「言葉とは何か」とは、結局はそれも言葉で問うのであり、「言葉」という言葉もまた言葉のひとつなのだ。だから、その問いは諸々の言葉の中での「言葉」という言葉の意味を問うことになる。とすれば、言葉の「意味」が何かをまず定義しておかなければならないが、そのためには「言葉」とは何かを知っていなければならない、というように、こうした堂々巡りになってしまう。

それなのに、私たちはついうっかりと、言葉の通常*1の導きに従って、「~とは何か」に応えるというやり方で「言語はコミュニケーションの1ツールである」などと答えてしまう。そう口にした瞬間、「言葉」という言葉の意味は、意思疎通や情報伝達として「意味」という言葉の意味も物事や観念として定まってしまうのにも関わらず、だ。

「言葉」という言葉の意味について考えることは、おそらく私たちの「日常の言葉」という経験から切り離さなければならない。それにも関わらず、言葉は言葉で「分かった」とする明晰さを、本当はその答えにも与えてくれている。「言語とは何か」と問いながら「言葉」という言葉の意味を恣意的に語る人は、つまるところ「言葉」については何一つ分かってはいないのに、そのことについて「分かっている」と思い込んでいるのだ。

実際、「言葉」ほど、言葉のなかで捉えどころのない言葉はない。数学における数と記号、緻密で概念的な言葉や厳格な命令の言葉から、立ち話でのおしゃべりや唄声、呪詛や祈祷や叫び、鳥や動物たちの啼き声、そして風景の持つ自然学的な言葉に至るまで、すべては言葉であると言えなくもない。これは逆説的ではあるが、「言葉」という一つの言葉のなかに、「言葉」という言葉の全幅の意味が含まれている訳ではなく、「言葉」という言葉の意味は、「言葉の意味」よりも、思い掛けなくずっと広い。しかも、それが一つであるとは限らないのである*2

したがって、「言語とは何か」と問うことは、漠然とした人が理を持つ多様な言葉のなかから、特定の種類の領域や権限を選び出す*3ことに他ならない。その、どの一つを選び出すべきなのか、記述すること、お願いすること、頼むこと、宣言することなどの権限や能力が挙げられるかもしれないが、これらのいずれもが日常で経験する言葉の一種であるとはいえ、「言葉」はそれらの権限や能力の掛け合わせでもなければ、どれかの権限や能力がその重心や基本的要素となる訳でもない。そのいずれかを真の言語、言葉の模範とするのでは、「言葉」を捉えそこなってしまうだろう。

それでも、誰かがこれらを総じてひとつの「言語」とみなし、「言語とは何か」と問いはじめるとき、私たちの念頭にある経験の、どんな権限や能力をもって言語とするかが、「言語とは何か」という問いへの偏った回答を慌ただしく構成し始め、それによって私たちに言葉遣いを強制しようとする、その隠された情念が垣間見え出していることに、どうして気づかずにいられるだろうか。

「言葉」は、音楽や美術とは異なって「その言葉の言い方は変だ」という言われ方をするように、言葉それ自体についても語ることができる。これを用いて、私たちは「言葉」によって言葉を語ることができる。そのとき、「言葉」は権限や能力を変えて「言語*4」と呼ばれるようになるのだが、そのような「二次的な言葉」は、それを語る人々への威力を確かに有している。

というのも、「言語とは何か」という問いに答えることは、それを以て言葉の評価基準にすることなのだ。例えば、「言葉」が「コミュニケーションの1ツールである」と定義されるとき、そうしたタイプ*5の言葉の上手な人が社会的に評価されるようになる。それは組織内で活動するときに有利なその人の特性に過ぎないのに、「言葉」の一つの正しい在り方とされてしまう。そのようなタイプの言葉が下手な人は、

「巧言令色鮮し仁」

孔子論語

という言葉もあるように、言葉のもっと別の在り方において優れている人かもしれない。

学問のため、或いは便宜のために、中立的に「言葉」の定義について語ることができる、と考えている人たちもいるが、それによって当該の「言葉」を他の人々がその意味で使わなければならなくなるのだから、それでもやはり、誰もが受け容れるべき価値について語っている。そして定義を下すことができるのは、いずれにせよ権限や能力を背景としてなのだろう。

「言葉」の定義をめぐる争いは、なるほどそれをすることが社会において効力をもつからこそである。大学、病院、法廷、会議などがまさにそれに当たるだろう。「言葉」について語ることとは、フーコーが『生政治の誕生』で述べていたように、云わば医師が患者へ病名について語るその瞬間、それは患者の投薬や施術や生活全般について告げてているようなものであり、自分の社会的立場やイデオロギーに依拠して、他の人々が、何を知覚して、何を認識して、何を価値として、何を基準にして、どう振る舞うべきかについて強制しようとしているのだ。

 

f:id:imkotaro:20181111201217j:plain
Charles Courtney Curran "The Cobweb Dance"

 

〈関連〉

 

〈参考〉

船木亨『現代哲学への挑戦 (放送大学教材)』放送大学教育振興会

現代哲学への挑戦 (放送大学教材)

現代哲学への挑戦 (放送大学教材)

 

ミシェル・フーコーMichel Foucault)『生政治の誕生』筑摩書房

 野矢茂樹西村義樹言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学中公新書

*1:或いは「本来的」と考えられなくもないが...。

*2:それが二つかもしれないし、何かと重複しているかもしれないし、或いは何かとつながっていることさえも考えられる。

*3:或いは、取捨選択すること。

*4:ここで言う「言語は、Languageに相当する「言語」という意味。

*5:「コミュニケーション能力」と形容されるような諸々のこと。