完甘美の空腹

raison d'être

「振る舞い」としての言葉

imkotaro.hatenablog.com

こちらの記事の補足、というか補完になります。

 

ジョン・L・オースティンという20世紀の英国哲学者によると、言葉は振る舞いの一種であるらしい。例えば、「結婚しよう(Will you marry me?)」という言葉は、婚姻関係への意思やそれが可能な条件に付いての情報を提示しているのではなく、その言葉を放った人とその言葉を向けた人の二人とそれらを取り巻く人々の関係を、それまでとは全く異なったものへと変えてしまう。そんな力があるからこそ、その言葉を口に出すことにひとは緊張する理由を持つのだと思う。

なるほど、普通に考えてみれば「言葉」と「振る舞い」は対立する。口先ばかりの人もいれば、言葉通りに振る舞おうとする人もいる。振る舞いで自らを示す人は、言葉少なであることも少なくない。むしろ、振る舞いを記述する言葉は、儀礼規範や教科書のような、一種の特殊な「言葉」であり、言葉という「振る舞い」と、振る舞いを約束する言葉や振る舞いの結果としての「言葉」があり、振る舞いと言葉とは、浸透し合っているのだろう。

ただ、振る舞いに直結するの宣言や命令のような一方的な会話だけでなく、もっと複雑な会話においても、いちいち言葉が指し示すものを想起する必要はない。なぜなら指し示すものが共通でない場合、会話はすれ違うと言われるが、実際には会話のすれ違いから会話が不可能になることはまずない。人々が会話をするとき、同一の意見や情報の共有が目的のコミュニケーションとして、あるいは同一の観念について確認したくてそうする訳ではないように、同一の、既に知っていることならば、あえて会話する必要もなく、あるいはそもそも言葉で確認できるようなものでもなく、逆にその意味がすれ違っているからこそ、人々は会話するのかもしれない。

つまり、一人ひとりがそれぞれ異なった経験を持っているのだから、語ろうとする言葉の意味はつねにお互いにずれているが、そうであってなお、しかし語り合うことを通じて、それぞれの言葉の意味を少しずつ変えていくのだ。むしろ、会話とは、このようにして「経験が多様化」していくこととも考えられる。そう考えると言葉の意味は確定できないことになるが、言葉とは、無数の語とその組み合わせによって、差異をより具にしたり、紛らわせたりする振る舞いに他ならず、そうした振る舞いをそれとは異なった言葉が引き継いでいくが、そうした差異によってこそ、会話が成立しているのだと思う。

人は、嘘の反対物として「本心」や「事実」を想定してきたが、思うに、言葉においては、意思や情報を完全に指し示そうとすることよりも(あるいはイデアを捉えようとすることよりも)、ある特別な人の、ある時ある場所での「一言」こそが重要な様に思う。法律が故人の意思(遺言)を尊重して権力と意味を付与するように、一人の人物の心に、メルロ=ポンティが説いた「意味の核」のようなものを産み出す「言葉」は確かにある。ジョン・L・オースティンのいう「振る舞う言葉」は、それをめぐって自らの生き方を決めていく、そんな真実の言葉を語ることこそ、言葉について考えることなのだろう。

 

参考

・ 『言語と行為』著・ジョン・L・オースティン

言語と行為

言語と行為

 

 ・『意味と無意味』著・メルロ=ポンティ

意味と無意味

意味と無意味

 

 ・CiNii『「ものが見える」ことと「ことばが分かる」ことの間:メルロ=ポンティにおける言語活動としての哲学の場』

 ・CiNii『メルロ・ポンティの『行動の構造』における「意識」の多義性と「統合」について』

 

 

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10/24 23:26

あともう2記事ほど書く予定です。この記事で触れた「表象」から「意味」を、「意味」から「差異」についてのそれぞれで深めます。