完甘美の空腹

raison d'être

アイデンティティ

アイデンティティという言葉を知っているだろうか。要は「自分という人間は何者なのか」という問いなのだが、これが問われ始めたのは近代以降の「人間」の再発見がされ始めてからだと言われている。「いやいや嘘つけ、絶対昔の人だって絶対迷っていたに違いない」と私個人は頑なに信じているけれど、おそらくその悩みを語り、あるいは残す術を前近代までの庶民は落ち合わせていなかったことは、今日に残されているものを見れば明らかだ。何だってこの私たちでさえ、アイデンティティなどという掴みどころのない、しかし何とも私たちに親和する言葉がなければ、自己存在の同一性の不在について言葉を通わせて認識することは叶わないかもしれないのだ。

そもそも「アイデンティティ」なる言葉は、エリク・H・エリクソンという心理学者が考えたらしい。その言葉を考察し、現在の「アイデンティティ」の意味を世間一般に広めるきっかけになった人としてもそこそこに有名である。もしその系統に興味を持っている人であれば彼のライフサイクル論を知っているかもしれない。私も名前だけは知っていたが、その考えに触れたのはほんのつい最近のこと。彼の思想は、常に「アクチュアル」な事実と理論とを行き来して作られている、と日本人の同分野の某教授は指摘しているが、とても説得力のある言説のように思う。日本語で「アイデンティティ」を「自己同一性」や「帰属意識」と解釈されようが、或いはぐぐったところで、その言葉の本来的な意味は全く的を得ていないのに、誰しもが感覚的にすんなりと理解できてしまう。実際、アイデンティティはとりわけ非常に広い意味を持っていると某教授は解説しており、一言で定義できる単語でないのは確かだ。私の考える文章中では、もう少しやわらかい、「自分が自分であると成り得る軸」くらいに納得してほしい。いわゆる普通の人たちが感じている「アイデンティティ」に対する語感の全てが「アイデンティティ」の本来的な意味に内包されている、と考えて間違いないと思う。

前置きで800字超も書くせいで文章が長くなるというのはともかく。例えば「あなたはどんな人ですか(あなたは誰)?」と聞かれたのならば、何をどう返すだろう。私ならまず「名」を名乗り、大学名学部学年を返し、所属するサークルを語る。次に出身地、出身校、居住地、くらいにまで話が運べばそれなりにきちんとした自己紹介だろう。次に趣味、中高時代の部活、共通の友人くらいまで話が進むこともある。他にも好きな音楽、ファッション、有名人、本、興味分野、食べ物にも話が及ぶかもしれない。「私」の表面だけをなぞるようでもどかしい、「自己」紹介の実態はこんなところだろう。

「世界とは”事実”の総体であり、”もの”の総体ではない。」

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考

「世界とは事実の総体」というウィトゲンシュタインの有名な命題があるが、これを改変して『自己とは、「自分」に関する事実の総体である』と解釈すれば、上述した自己紹介を細部に切り込ませると、いずれ「自己」は論理によって解体できることになる。論考と同じ流れを辿れば、どうせ「語りえないもの」に「沈黙」しなければこの論理は完成しないだろう。しかし、「自己」が「ある程度の所属」のような「自分」に関する事実で解体可能なことは明白だ。

さて、「~は明白だ」という説を論証したのならば、それに対して逆説を立てるのもまた筋だ。他者にとっての「私像」は、「ドコ大学のアレが好きなナニさん」くらいで定立できるかもしれないが、「私」における「私」にとっての「私像」はそうもいかないのだ。ときに、「テセウスの船」というパラドックスがある。掻い摘んで説明すると、ある古くなった船の全部品を全て新しいものに取り換えたとき、その船は果たして元の船と同一なものだろうか?という問いだ。これは私たち人間についても同じ問いかけができ、聞くところによると人間の細胞は約6年間で総入れ替えされるらしい。ならば、端的に言ってしまうと今日の私と6年前の私はほとんどすべてにおいて異質ということになる。もっと言えば、今この瞬間も私の何かが入れ替わっている訳だから、常に私は変化しているだろう。高校であれこれ喚き散らして叫んでいた6年前の自分と、またもや夜更けにこんな文章を自分でも半ば呆れつつも繙いている自分が、同じ「私」だとはにわかに信じがたい。そういう意味では、私は間違いなく変化し続けているのだ。

また、私にとっての「私」像というのは、場所によって、あるいは場面によってももちろん変化している。高校で喚いていた私と、彼女に萎らしく叱られていた私と、部長としてみんなを取りまとめていた私と、一人で文章を書き散らしている私は、間違いなく違う。あるいは、友人との関係にしても、相手が男女どちらであるか、いつからの知り合いであるか、相手はどういう人であるかによってももちろん、「私」を使い分けている。私が普段引っさげているこの「顔」だって相手によって、その日の睡眠時間によって、加齢によって、絶えず変化し続けている。変化しないものは、それこそ私に関する今までの事実くらいなものなのだ*1

アイデンティティ」という概念は、何も「過去から今までの自己同一性」だけではなく、「今から未来にかけての蓋然的な自己同一性」をも内包する(たしか)全く不確定な未来において、身近なところで言えば明日の私について、蓋然的に「ある」と仮定できなければアイデンティティは担保されない。これまでの思考を辿れば、アイデンティティに関する問題は、世間的に語られるようなモラトリアム期に限った問題ではないと言えるだろう。

なんだか収拾がつかなくなってきたが、つまり何が言いたいのかというと、私がこれまでどうあって、今どうであっていて、明日、1年後、5年後、10年後どうあろうとも、それは同じ「私」であるということは自他共におそらく確かだ。アイデンティティは、それらを貫く一意のものにはきっと限定されない。アイデンティティは、様々な時間的・空間的階層においてある一定の「私」をとりまとめ、同一化させてくれる概念だ。例えば、昨日の私と今の私を統一するアイデンティティもあるのだろうし、友人の面前での私と一人の時の私を統一するアイデンティティもあるのだろうと思う。

今日、アイデンティティは確立されない、喪失された、とまで言われる。定立しない一意の、完全なアイデンティティなんてものは存在しなくて当たり前なのに、皆それを求めるからこそもがき、肯定化思想のもとに実を結ばせようとする。私たちに与えられる物語が細分化し個別化していけばいくほど、私たちはより大きな思想*2への思慕を隠せないようになり、その一方で個別的かつ排他的なアイデンティティに自己を集約させようと足掻いている。これについてはもっと多くの様々なアイデンティティの在り方を認識・理解することができれば、もう少し生きやすくなるかもしれない。もちろん真摯な同一性に全力でもたれかかる、という気楽さはとても良いものだと思ってしまうけれど。

 

アイデンティティとライフサイクル

アイデンティティとライフサイクル

 

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kikuno-mure.hatenablog.com

美しい文章に触れてしまったからには、扇動されてしまったからには。何か形にして残すべきだろう。人を動かすものはきっと良いものに違いないのだから。

*1:過去の事実がどこに「在る」のかは省くとして

*2:物語