完甘美の空腹

raison d'être

言葉と振る舞い

imkotaro.hatenablog.com

前回からの続き。

 

「おはよう」という挨拶や「ありがとう」という礼儀のような決まりきった言い回しや掛け声は、いつかその言葉がどんな意味なのかを考えようとすらしなくなる。とすれば、「おはよう」や「ありがとう」は、ある種の「音楽(歌)」と考えることができないだろうか。

「言葉もまた音楽と同様に無言であり、音楽もまた言葉と同様に語る」

(メルロ=ポンティ 『知覚の現象学』より)

ベートーヴェンの『運命』の冒頭や、ワーグナーの『結婚行進曲』がすでに言葉でもあるのと同じように、言葉も歌になり得るだろう。そのような「言葉」はもはや言葉ではなく、もっと根元的なもので、犬や馬といった動物もが理解する言葉のような、状況や振る舞いと共にある、言われる・語られる前から意味が「分かって」いる言葉、いわば合図だ。

「愛している」のような、意味の曖昧な言葉を繰り返し語るということは、「おはよう」や「ありがとう」と同様に、あるいはカラスやサルが仲間を求めて呼び合う啼き声と同様に、お互いに相手の存在を承認し、必要としていることを示す合図でもある。昔話の世界では人間と動物とが自然に語り合っているが、人間がまだ神の声を聞いていた時代は動物と合図で通じ合っていたのかもしれないし、そういう意味でもやはり言葉は合図なのだと思う。

そして言葉には、既に何かしらの効用がある*1。例えば、逆上がりができない人に対して、いくら緻密に言葉でやり方やコツを伝えてもできない人にはできないが、「がんばれ」という掛け声が、あっさりとそれを実現することもある。それは、言葉自身が振る舞いであるように、言葉が振る舞いに対して働くからなのだ。加えて、それは「誰が」「どんな意味で」とは無関係に、振る舞いに対して働く言葉であるから、人々は言葉を人に「振る舞う」のだ。歌を歌うでもいいし、言葉を喋るでもいいし、ニッコリと笑うだけでもいいように、私たちは、絶えず語りながら振る舞うし、振る舞うときには何かを語ろうとしている。アウグスティヌスが言葉に先立つ「自然の言葉」について述べたように、それは表情や身振りや仕草のようなボディランゲージのことを指しているのだろう。

さて、「振る舞いながら語られる言葉」というのは「舞踊をしながら歌う歌」のようなものだ。「よいしょ」と呟きながら腰をあげることもそうだし、誰もいないリビングで独り言を溢すこともそう。ある種のトートロジーとも言えるかもしれない。思えば、駅の車掌がする指差し確認や相撲の呼び出しは、そうした言葉と振る舞いの原初的な関係を再現しているようにも考えられるだろう。

人類の最初の声が叫びやため息や喘ぎだったとしても、そこに抑揚やリズムや強弱高低などの変化があれば、音楽と踊りと言葉は生まれる。はじめは身体を揺さぶるハミングのようなものであっても、それが人の喜怒哀楽を表象する表情や身振りや仕草になり得るように、諸々の振る舞いが、期待や不安、悲哀や至福、退屈や驚愕、嫌悪や賛美を表現するまでにそれほど時間はかからないだろう。つまり、今日における歴史や遺跡の証拠が、古代から脈々と続いている舞踊が、今なお語っているように、人類は数十万年のあいだ踊り続け、歌い続け、その中で「ハミング」や「おしゃべり」がはじまり、謡曲や叙唱のような声の中で、やがて何かを指し示すこともできる「言葉」が発生(発声)したのだ。

 

 ・参考

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の存在論と「永遠性」の概念ci.nii.ac.jp

「言語は人間の独占物である」という主張についてci.nii.ac.jp

『言語起源論--旋律と音楽的模倣について』著:ジャン・ジャック=ルソー

言語起源論――旋律と音楽的模倣について (岩波文庫)

言語起源論――旋律と音楽的模倣について (岩波文庫)

 

 

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 9/30 0:00

次回の「言語と音楽」に続きます。

*1:言葉や交渉で問題とされる「嘘か本当か」とは無関係に