完甘美の空腹

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「意味」の意味

「意味」という言葉の意味には、3種類ある。ひとつは言葉について語られた言葉としての意味、シニフィエ(signifié)として言葉の分かるという意味。次に、過去やそこでの振る舞いについて物語られた出来事の意味、思考が分かること。そして、音楽など感覚することにおける意味、感覚の分かること。これらはすべて「分かること」であって、だからといって共通の経験であるということはない。いずれかが真に分かることであって、他の分かることはその擬似的な経験や比喩的な経験であるということでもない。「分かる」ということ自体も、知的なものだけでなく、情を知るとか、意を決するといったことでもあり、決定的なこともあれば、漠然としていることもある。それゆえに「分かる」というそのこと自体を分かろうとすることが重要になってくる。

そのためには、類比や同一性や二項対立のような思考的な枠組みによって経験される「分かること」を、分からないことのうちへと一旦解消してみる必要がある。そのあとに、全く違って分かること、あるいは、分かることと分からないことの全く違った境界線が現れてくる。「分かる」ということを一人ひとりの感覚適正と思考の関わりのなかに位置づけ、それによって言葉の分かることを支えないことには、何も「分かる」とは言えないのだ。

観て、読んで、聴いて、学んできたところによると、言葉が生まれたのは、思考の中からではなく、音の諸差異の中であるらしい。すなわち、例えば「ウミ」と発言したときのシニフィアン(signifiant)の明晰さは、自分の知っている歌を、自信を持って歌ったときの明晰さに似ている。また、人々の間であれば、大縄跳びの回転する縄の中に入ってジャンプして、縄と踏まずに済んだときのような明晰さだろう。「ウミ」と言われて、青さや広さや潮の匂いやさざ波の音を感じられる、あの「海」を想像するように、言葉が分かるというのは連想や回想といった作用によって成立する。ただし、言葉は進化の中で、「意識」をもつ生物が現れ、その中の象徴を操作することのできる「精神」が生まれて、相互にコミュニケーションする必要から発明された、という考えがあるが、これは間違いだ。それは言葉自身を使って作り出された物語に過ぎず、「なぜ」という問いにも、「どのようにして」という問いにも答えられてはいない。むしろ、かつて音から言葉が生じ、その言葉の中に言語の諸機能が生まれてくるとして、しかもまた、今なお言葉のなかにそれが音であるという本性が含まれている。あるいは、いつでも言葉に交替して出現することができる。

確かに、言葉には、回想や想像を喚起させる力がある。人はそこに共通の事物や観念を見てとって、それを「意味」と呼んできた。言葉は、何の対象もない意味としてのシニフィエをもたらし、その後に何らかの知覚やイメージや観念を喚起するという不思議な働きをしてくれるのだ。

 

・参考

意味の使用説とは何か : ウィトゲンシュタイン後期哲学における言語像 (思考と言語)ci.nii.ac.jp

言語論的転回:ラッセル判断理論とウィトゲンシュタインci.nii.ac.jp

『論理哲学論証』著・ウィトゲンシュタイン,野矢茂樹

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

 

 

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9/29 13:46

ルソーが『結んで開いて』を作曲したように、彼は、言葉は歌からはじまると説いた(『言語起源論』にて)。それは古代における求愛の歌垣や、子ども達が輪になって回りながら歌うロンド、死者を鎮魂するために斉唱される読経、それらはどんな意味の歌であるかを知るために、シニフィエとしてそこに言葉を聞き取る必要すらない。メッセージソングというものがあるにしても、それは論証としてではなく、情緒に訴えるものなのだから。


次回の「言葉と振る舞い」に続きます。