祈るということ

imkotaro.hatenablog.com

この回の続き。具体的な祈りについて僕の体験を補足しておきます。

一応前置きを引用。

「祈りとは世界の意義(意味)についての思考である」

論理哲学論考ウィトゲンシュタイン より

 

祈っているとき、僕らの祈り(という形)をとっている身体と、内在している思考は間違いなく分離している。

(中略)

しかし、本来の祈りとはただ無心になり、その場に包まれ、そこに一体化すること。礼拝堂のような静寂の(あるいは独特の音声が流れている)場での祈りは、外界の煩わしさから隔離されていて、そこには他者も自己もなく、無になることで感覚を研ぎ澄まし、世界について思考することができる空間。

 

ムスリムたちは一日五回、モスクから流れるアザーンという独特な合唱(日本のお経みたいなもの)に合わせて早朝・昼過ぎ・夕方・日没・夜中にモスクや礼拝室の中で祈りを捧げる。インドやUAEに行ったときにムスリムたちと混ざって礼拝をしたことがあるけれど、あれは日本人が想像する祈りのそれとは質が全く異なる。ムスリムは信仰心が極めて高いのも関係しているのかもわからないが、ムスリムたちの祈り(サラート)は真面目とか熱心みたいなレベルではない。それはまさに「真剣」。真剣という言葉には本気や真面目という意味もあるが、もう1つ「斬れる刀」という意味もある。真剣勝負、といえば生き死にを賭けた斬れる刀での戦いのことで、勝てば生き残り負ければ死ぬことを意味する。この生き死にを示唆する「真剣」という表現が本当にしっくりくる。ムスリムたちは、イスラム教に真剣だからこそ、真剣にサラートをするし、真剣に神(アッラー)と対峙するし、真剣に思考するし、真剣に世界をみている。真剣に向き合っている。世界と。自分と。その真摯さには美しさすら覚えてしまう。ムスリムたちの祈りをみていると、「自分ももう少し真剣に生きてみたい」と感じてしまう。それくらいの真剣さ。まあそれくらい真剣に生きていないと自爆テロなんかできやしない。あれは本当に美しい。

キリスト教ではどうだろう。キリスト教は一日三回、朝・昼・晩(朝礼・お昼ご飯前のお祈り・終礼)と手を握り合わせて祈りを捧げる(という記憶なので悪しからず)。

「天にまします我らの父よ、願わくは御名の尊まれんことを、御国の来たらんことを、御心の天に行わるるごとく、地にも行われんことを。我らの日用の糧を今日も与え給え、我らが人に赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ、我らを試みに引き給わざれ、我らを悪より救い出し給え。アーメン。」

書いていて意外にも覚えているもので自分でもびっくり。漢字が合ってるかは知らない。キリスト教の祈りは、礼拝堂のような静寂が整備された音声空間の中で、形を以て祈る。始めは神に向けて祈り、やがて自分と向き合い、思考し、世界をみる。キリスト教の祈りの面白さは、祈っている身体と内在している精神(思考)が完全に分離するところだ。 祈っている時の、あの何とも言えない遊離感。正直たまらなく好き。精神が、思考が、身体を置き去りにして勝手に独り歩きしていく。すると世界を精神世界からみることができるし、自分を外から見つめ直すこともできる。ただ、キリスト教の根本的なところに「慈悲」があるからかキリスト教徒たちの行き着く先はほとんどがその方向を向いているように思う。生き方にしろ、価値観にしろ。

最後に仏教徒。インドや東南アジアで隆興していた仏教は、特にこれと言った決まりはなく(それでも朝昼晩とかになるが)好きなように祈る。場所も形も決まりもなく、祈っているという形(自覚)と祈る精神があることを以てして礼拝をする。仏教は始めから自分と向き合い、思考し、世界をみる。実は仏教にも「慈悲」という考えがある。一般的な日本語の意味での「慈悲」は、目下の相手に対する(キリスト教的な)憐憫の思いを意味する場合が多い。しかし、仏教の「慈悲」はそれとは違っていて、仏道の慈悲は全ての生き物(一切衆生)に対して平等に幸せを願う、真の友情・親愛なる純粋な慈しみの念のことを指している。そのためか、仏教の祈りは、イスラム教やキリスト教のように祈り(という形)や神を介さず、直接世界をみる。それだけに行き着く真理は千者万別だし、悩みも生き方も価値観もバラバラ。それらを超えたところまで行き着く人もいる。仏教の祈りは自らが心理、いわば神になるところにある。と思う。

改めて思う。祈りとは「世界の意味(意義)について思考すること」だ。そして宗教とはその形や方向に過ぎず、正しくは世界そのものなのだ。きっと。

 

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8/18 0:55

まあこんなことを書いてもこの気持ちや感情が、どれだけ時間をかけてもどれだけ労力を注ぎ込んだとしても他人に100%正確に伝わることはないというのは、何とも言えない。

それでも、祈っているのだから、祈りを求めているのだから、信じる。信じるしかない。救われたい訳じゃない。

ただ、信じたい。自分を。人を。世界を、