完甘美の空腹

relish the beauty, kindness, perfect

自己を放棄するということ


imkotaro.hatenablog.com

続きの続き。これでこの話は終わり。

さて、このへんでやめてもいいのだけど、もう少しだけ自分が考えていたことについて付け足しておきたい。

自我を捨てて、相手と向き合うとき、自分の動きを起動するのは全て相手ということになる。これは非常に依存的なあり方だし、存在の仕方だと思う。自分の今の存在は、今まさに自分を殺そうとしている相手(命を危うくする原因が人間とは限らない)のあり方で全て決定される。この状態で命のやりとりを行うとき、理論的に言って術者に選択肢はない。選択肢について思い悩む必要がない。そして前もって筋書きの詳細を知る道もない。もちろん実力差がありすぎると、大筋においては決まってしまうだろうけど。

これを社会生活に応用した場合、その時にどんな人間になるのだろうか、と私は思った。自分に立場があり、義務が課せられていたり、期待されている行動があるならば、それを読み取り、淡々とこなせば良いことになる。そこに自分の意思が介在している必要はない。

自分が何をしたいかとか、自分の能力や適正といった自己認識を持つ必要もなくなる。

もしかして夏目漱石が言った「則天去私」というのは、こういうことなのではないだろうかと思った。晩年の漱石は書きたくもない小説を「彼岸過ぎまで」という約束で書かされたりして、大変苦痛だったそうだ。しかしやってたのは、そう思いながらやってたのだろうか?それでも吐血するくらいには嫌だったんだなと思うと、やはり勝ち目のない方策でしかなさそうだ。

しかしながら、ある程度ならば、自我の存在を放棄、は難しくても、極力無視して生きることはできなくはない。

そうやって生きて来た。

 

 

彼岸過迄 (新潮文庫)

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