完甘美の空腹

日記 自分用

自分と文章

変わってしまったことに悲しくなったり、変わらないことに苛立ったりする日々の中で。自分自身はどうなのだろうか、と問いかける。あの頃とは違う自分に変われたのだろうか。あの頃とは違う自分に変わってしまったのだろうか。

  好きだったものが好きじゃなくなったって気づいたとき、自分が変わってしまったことに対して悲しくなってしまうのはなんなんだろう。自分が好きだったものとかが、自分のアイデンティティとか自分とは何者か、みたいなのを形作っているから、好きだったものが好きじゃなくなると不安みたくなって悲しくなる。

確かに、自分のブログやTwitterやLINEを見返さないと自分が何者かってわからなくなることはある。いや、正確にはどういう自分でありたかったのかを忘れてしまうんだろう。やっぱり人間ってその瞬間に生きているから(もちろんその積み重ねでもあるけど)、そのときその時の自分が何を聞いて何を見て何を感じて何を思って何を考えて何を行って何を成したのか、のうちのせめて「聞く・見る・感じる・思う・考える」くらいは書き留めておかないと、自分を見失ってしまう。そうならないよう文章に残しておかないとな、と常々感じる(何を行って何を成したかなんてのは書かなくても覚えてるから別にいい)。そしてそれらを書き溜めてしまうと、溜めたそばからそのときに思ったことは忘れてしまうので覚えているうち・新鮮な間にできる限り文章に起こして推敲することが大切。

例えば今の僕であれば、最初の「変わってしまった〜(中略)〜しまったのだろうか。」という一節を1日に4つくらい下書きに落として、そのうちの2つくらいをこんな感じで文章に起こしている。文章になったらとりあえず投稿して、それからまた何度か読み直す中で推敲したり添削したり文体を整えたりして、その都度追記の記録を残しておく。こうして文章を書き出している。ここ最近の記事はほとんどがそう。

  良い文章を書くには、きっと推敲を重ねるしかないんだろう。詰まるところ、文章を考える(書く)っていうのは文字の組み合わせなのだから、閃きや思いつきではなくて、書き出しと組み合わせの作業なのだと思う。そしてその文章を書き出すアウトプットの量はインプットの量に比例する(これは経験則だけど事実のように思う)。だから、文章が書けない時っていうのは、いかに最近、本読んだりしてないとかスマホばっかりいじっていて寝る前にひたすら妄想とかいろいろと考えてないか、というのを身を以て痛感する。

ただ、文章を書く人は書くのと同じかそれ以上に読むのも好きだから、書き続ける、それこそブログのように短いスパンで書くのは難しいよなと思う。まあ楽しいのはわかるけどね。できることなら好きな(人の)文章を読みながら書き続けたい。でも好きな文章読むのってもう最高なんだよなあ。文章に恋してる感じだ~~〜〜

 

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7/11 12:04

7/11 22:04 追記 末尾部分を加筆修正

7/12  10:34 追記 1段落2節目訂正加筆 話の流れを通した あと全体の句読点を直してニュアンス変えた

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