完甘美の空腹

relish the beauty, sweet, perfect

「カッコイイ自分」という偶像崇拝

偶像崇拝」という単語を見ると魯迅の『故郷』を思い出す。閏土は生きる気力を失い、希望も展望もなく祈っているからその小さな願いはたやすく叶う。一方、「わたし」の願いはぼんやりしていて叶いにくい。しかし、考えてみれば「わたし」の希望も積極的に行動しなければ閏土と同じじゃないか、ということに気が付く。そんな話。

自分という偶像を崇拝するのは、信仰をするのが上手くないとどうしようなくなる。崇拝の目的は、自己の強大化を求めることと、そして他人への依存や願望を除去すること。おおよそこの2つに集約される。そのためにアルコールやドラッグ、時には食事までをも断って、自らを律する。現代においては、いつでもどこでもアルコールも薬物もそして食事さえも、簡単に手に入れることができる。その欲望だけに生き続け、そういう自分の中の「カッコイイ(という理想の)自分」という神を求めているのだ。その願望を満たすために自分自身を礼拝し続けている。しかし、その信仰は自分のためであって自分のためでないという矛盾がある。それに気づかず、何の疑問も持たず素直に信じ続けられることができれば、どうしようもなくなることないのだろう。

『故郷』の末尾には「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」という一文がある。これはつまり、希望を願っているだけではだめであって、それを実現させるために同じ方向を向く人たちと協力しなければならない、ということだろう。それすなわち......いや、これ以上は悲しくなるのでやめよう。

 ただ、自己承認的に自分の趣味を高尚なものとして信仰できると楽なのだ。色々と。

 

故郷

故郷