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続きの続き。前回の簡単なまとめです

 

挙げた3宗教(イスラム教,キリスト教,仏教)について

戒律の厳しさ:仏教キリスト教イスラム

祈る回数の多さ:仏教キリスト教イスラム

祈る時間の長さ:イスラム教<キリスト教仏教

世界の広さ(深さ):イスラム教<キリスト教仏教

礼拝の静かさ:仏教キリスト教イスラム

礼拝施設の地理的環境:イスラム教は街中、仏教は自然の中、キリスト教は中間

祈りの形:イスラム教が厳格、仏教は自由、キリスト教は(宗派に依るが)中間

 

ざっと並べるとイスラム教と仏教は対極関係でキリスト教がその中間な印象を受ける。戒律の厳しいイスラム教は祈ることに意識がいきがちなのか、世界が狭く浅い。自分よりも先に世界が、神が来る。むしろ自分なんて要らないくらい。対して仏教は何を祈るのか、何を悟るのかに重きを置くので世界は広く深い。世界をみて、自分がどうありたいのか、どうなりたいのか、はたまた世界をどうしたいのか。キリスト教は宗派に依るから本当は一概に言っちゃいけないんだろうけど、どちらでもあるし中間の場合もある。僕はカトリックしか知らないしそもそも洗礼も受けてないのでなんとも...。あとは礼拝の状況・環境も何か関係してるのかなと思う。ふつう、イスラム教の礼拝はモスクっていう施設で行うんだけど、実はモスクはザワザワわちゃわちゃしてる。というのも、モスクは祈るためだけの施設じゃなくて、お清めをする場でもあるし、礼拝が終わったらみんなでお茶をする場でもあるから、なんというか厳かなのに和やかでもある。だからモスクって不思議な空間なんだよね。これは実際に体験しないとわかんない。たぶん。その点、キリスト教の礼拝堂(聖堂)はほぼ礼拝専用の空間で、厳かなんだけど祈っているそのときや誓いを立てるその瞬間は神が立ち会っているからか決して孤独感はないんだよね。もちろん自分以外にも祈っている人がいるときもあるし、いないときもあるんだけどそんなことは関係なく、なんというか、見られてる感?みたいな。まあ祈ってるときは遊離してるから自分が2人いるってのもある。仏教はぶっ飛びすぎててもう面白すぎる。どこでも祈るし一瞬で祈ることもあればマニ車回せばOKもアリだし永遠に祈ってることもある。しかも行き着く先が「痛みを超越して生を見出す」みたいな人もいれば埃と霞を食べて生活してるガチ仙人もいるし、「俺自身が神になることだ」みたいな人もいる。まあただ仏教は祈るまでの道のりが長いけどね。修行とか巡礼とかあるし、祈るための修行も巡礼もある。滝行とか。祈りそのものが人生、みたいな感じなのだろうか。そういえば礼拝の厳かさっていう項目を設置しようと思ったんだけど、「???」みたいな状態になってオーバーヒートしたので諦めました。誰かよろしく。

 

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8/18 23:47

ここまで一気に書いた。こういう推敲してない文章はなんというか自分の頭の中を覗き見られているようで恥ずかしくてあんまり好きじゃない。けどそこまで頑張って推敲する気力も体力も残っていないのでこれでいっか。いいよね。あとこういうテーマは座学みたいに教えてもらいながら深めるよりも自分で調べていって学んでいきながら深められるしそれが面白さでもあるからとてもいい。

祈るということ

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この回の続き。具体的な祈りについて僕の体験を補足しておきます。

一応前置きを引用。

「祈りとは世界の意義(意味)についての思考である」

論理哲学論考ウィトゲンシュタイン より

 

祈っているとき、僕らの祈り(という形)をとっている身体と、内在している思考は間違いなく分離している。

(中略)

しかし、本来の祈りとはただ無心になり、その場に包まれ、そこに一体化すること。礼拝堂のような静寂の(あるいは独特の音声が流れている)場での祈りは、外界の煩わしさから隔離されていて、そこには他者も自己もなく、無になることで感覚を研ぎ澄まし、世界について思考することができる空間。

 

ムスリムたちは一日五回、モスクから流れるアザーンという独特な合唱(日本のお経みたいなもの)に合わせて早朝・昼過ぎ・夕方・日没・夜中にモスクや礼拝室の中で祈りを捧げる。インドやUAEに行ったときにムスリムたちと混ざって礼拝をしたことがあるけれど、あれは日本人が想像する祈りのそれとは質が全く異なる。ムスリムは信仰心が極めて高いのも関係しているのかもわからないが、ムスリムたちの祈り(サラート)は真面目とか熱心みたいなレベルではない。それはまさに「真剣」。真剣という言葉には本気や真面目という意味もあるが、もう1つ「斬れる刀」という意味もある。真剣勝負、といえば生き死にを賭けた斬れる刀での戦いのことで、勝てば生き残り負ければ死ぬことを意味する。この生き死にを示唆する「真剣」という表現が本当にしっくりくる。ムスリムたちは、イスラム教に真剣だからこそ、真剣にサラートをするし、真剣に神(アッラー)と対峙するし、真剣に思考するし、真剣に世界をみている。真剣に向き合っている。世界と。自分と。その真摯さには美しさすら覚えてしまう。ムスリムたちの祈りをみていると、「自分ももう少し真剣に生きてみたい」と感じてしまう。それくらいの真剣さ。まあそれくらい真剣に生きていないと自爆テロなんかできやしない。あれは本当に美しい。

キリスト教ではどうだろう。キリスト教は一日三回、朝・昼・晩(朝礼・お昼ご飯前のお祈り・終礼)と手を握り合わせて祈りを捧げる(という記憶なので悪しからず)。

「天にまします我らの父よ、願わくは御名の尊まれんことを、御国の来たらんことを、御心の天に行わるるごとく、地にも行われんことを。我らの日用の糧を今日も与え給え、我らが人に赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ、我らを試みに引き給わざれ、我らを悪より救い出し給え。アーメン。」

書いていて意外にも覚えているもので自分でもびっくり。漢字が合ってるかは知らない。キリスト教の祈りは、礼拝堂のような静寂が整備された音声空間の中で、形を以て祈る。始めは神に向けて祈り、やがて自分と向き合い、思考し、世界をみる。キリスト教の祈りの面白さは、祈っている身体と内在している精神(思考)が完全に分離するところだ。 祈っている時の、あの何とも言えない遊離感。正直たまらなく好き。精神が、思考が、身体を置き去りにして勝手に独り歩きしていく。すると世界を精神世界からみることができるし、自分を外から見つめ直すこともできる。ただ、キリスト教の根本的なところに「慈悲」があるからかキリスト教徒たちの行き着く先はほとんどがその方向を向いているように思う。生き方にしろ、価値観にしろ。

最後に仏教徒。インドや東南アジアで隆興していた仏教は、特にこれと言った決まりはなく(それでも朝昼晩とかになるが)好きなように祈る。場所も形も決まりもなく、祈っているという形(自覚)と祈る精神があることを以てして礼拝をする。仏教は始めから自分と向き合い、思考し、世界をみる。実は仏教にも「慈悲」という考えがある。一般的な日本語の意味での「慈悲」は、目下の相手に対する(キリスト教的な)憐憫の思いを意味する場合が多い。しかし、仏教の「慈悲」はそれとは違っていて、仏道の慈悲は全ての生き物(一切衆生)に対して平等に幸せを願う、真の友情・親愛なる純粋な慈しみの念のことを指している。そのためか、仏教の祈りは、イスラム教やキリスト教のように祈り(という形)や神を介さず、直接世界をみる。それだけに行き着く真理は千者万別だし、悩みも生き方も価値観もバラバラ。それらを超えたところまで行き着く人もいる。仏教の祈りは自らが心理、いわば神になるところにある。と思う。

改めて思う。祈りとは「世界の意味(意義)について思考すること」だ。そして宗教とはその形や方向に過ぎず、正しくは世界そのものなのだ。きっと。

 

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8/18 0:55

まあこんなことを書いてもこの気持ちや感情が、どれだけ時間をかけてもどれだけ労力を注ぎ込んだとしても他人に100%正確に伝わることはないというのは、何とも言えない。

それでも、祈っているのだから、祈りを求めているのだから、信じる。信じるしかない。救われたい訳じゃない。

ただ、信じたい。自分を。人を。世界を、

「言語化」という病気

僕たちは日々生きていく中で、自らの体験を言語化・具体化することが求められる。やれ自己分析だ、やれ自己アピールだと、僕たちを言葉で表現させようとする。また、たとえ社会がそれを求めなかったとしても、僕たちは、僕たち自身を言語化しようとしている。SNSでありがちな「体験」や「思考」をシェアするのがいい例。自分がどれだけ苦労して、どんな思いをして、どんな体験をしたのか、多くの時間を浪費しながら発信しようとする。もちろん、このブログもその類うちの1つだ。 

僕たちは「言語化」という病気に侵されている。僕たちは、知らず知らずのうちに言葉の枠に自分の感情を当てはめようとするあまり、自らの感情や体験は歪曲・縮小し、言語表現にとどまってしまう。他人に理解されたいがために、自分の体験を言語で成型し、それを下らない言葉の羅列で表現しようとしている。

賢人は寡言であることを求め、自分のわかること、つまりは自分が他人に対して適切に表現できることだけを表現しようとする。対して愚人な僕はそんなことで我慢できるほど育ちも出来もよくない。なので僕たちは自己を理解して欲しいため、あるいは誤解されたくないために、むしろ自己存在を他人にわかる形で表現しようとし、結果的に自らをつまらない平凡な人間にしてしまう。

そもそも、僕たちの実感というのは言葉で表現できるほど小さなものではない。心理学のメラビアンの法則によれば、言語情報は情報伝達の7%程度しか占めていないらしい。たしかに僕たちの感情というのは決して「喜」「怒」「哀」「楽」で括られるほど浅はかなものではないし、どれだけ言葉を尽くしたところで他人に100%正確に伝えられるものでもない。僕たちの感情というのは、僕たちがそこにいたるまでのあらゆる経験、他人との関わり合い、その場の空気感とか様々な状況が複雑に混ざり合った上で成り立っている。万感という言葉があるけれど、僕はこれくらい大きい単位の言葉でないと僕たちの感情は表現できないと思う。

「わからないこと」というのは、不安や好奇心を湧き起こさせてくれる。しかし、すべてのものが「言葉」になった瞬間、僕たちにとって何らかの「わかる」ものに歪曲・縮小し、それがもつ可能性やきらめきは失われる。言語の、言葉の先にある「何か」は、無視していいものとして捨象され、事象は言語化・具体化によって衰耗される。言語化とはこういうことで、まさに病気のようなものだと思う。

そして、僕はおそらくこの病気のかなり重度な患者だ。僕は、僕のまわりにある何かをすべて言語化しないと気が済まなくて、その結果多くを捨象して、見ないようにしている。言語化は具体化なのかもしれないけど、それと同時に抽象化でもある。つまり現実を言語世界に具体化するということは、言語世界という理想に事象を抽象化することでもあるのだ。僕は僕を、僕の言語の、僕の言葉の中で理解しようとするあまり、僕という存在から離れたもう一つの「自分像」をつくり、それを発信することに必死になっている。

人は病から立ち直りたい、病を克服したいと思うものだ。僕だってこんな偏屈な自己承認欲求はできることなら今すぐにでも捨てたい。だいたい、こんなことを言語化して思考し続けるからより一層鬱々として夜更かしをしているとしか思えない。

 

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8/16 1:13