お疲れ様でした

ピーマンを食べたいのに食べられないという人に対して、「本当は食べたいんだったら少しずつ頑張ってみよう?」というAさんと、「本当は食べたいんだったら例えばこういうところから始めてみよう?」というBさんと、「本当は食べたいフリをしているだけではありませんか?自分の心に聞いてみましょう。食べたいのか食べたくないのか、あなたは本当は食べたくないのではありませんか?しかしあなた自身、それではいけないとわかっているはずです。ピーマンを食べる人と食べない人、あなたはどちらになりたいですか?」というCさんと、「本当に食べたいなら今頃とっくに食べてるはずだグダグダ言うな食え、さもなくば一生そうやって泣いてろ」というDさんがいるとする。僕はAさんBさんCさんの言葉がうまく頭に入ってこない。文字起こすことはできても意味が通らない。耳に入っているのに感覚に落ちてこない。自動的に全部弾いてしまう。それが自分にどう向けられているのか、それを聞いて僕がどうすべきか、わからない。わからないフリをする以前の問題。「本当はわかりたいんだったら少しずつ頑張ってみよう?本当はわかりたいんだったら例えばこういうことから始めてみよう?本当はわかっているのではありませんか?わかっていてわからないふりをしているんじゃありませんか?しかし本当はわからないといけないって、あなたはわかっているはずです。わかる人とわからない人、あなたはどちらになりたいですか?」……、マジでわからない。どれもこれもプレッシャーが強すぎてこれを書いている時点でもう泣きたい。精一杯、「?」への答えを捻り出すなら「別にどっちでもいい」。或いは「その答えってもう決まってるんじゃないですか。なんで一応僕の同意を得ようとするんですか。何かを選ぶのってすごく疲れるのでもう黙りますね。」全部僕以外の何かに向けられた言葉かのように感じて、勝手に全部他人事になってしまう。人の優しさってわからない。たぶん一生わからない。ただ、Dさんの言ってることだけよくわかる。なんてわかりやすいんだろう。考える余地がない。「自分は自分の思うことしかわからない」のいい見本だ。
結局、人は人によって救われるのだとしたら、僕はいつまで経ってもこんな調子だし、きっと一生救われることはないんだろう。仕方ない。
あと数kmの道のりだとしても、歩けないって思ってるから歩けない。なにかの間違いで沿道に観客が集まって旗を振っててもきっと歩けない。だって自分のことしか見えてないんだもの。ハイ解散解散、僕はそのあと数kmが歩けなくて、ここから動けないよ〜地獄だよ〜とか喚いて一人でオイオイ泣いてそのまま行き倒れるんだよ。知ってたんだ。中学生の時からわかってた。救いようがない。
天は自ら助くる者を助くって言うなら、じゃあ僕は僕のやり方で自分を助けるよ。道端で一人オイオイ泣いて行き倒れることが僕の救いなんだ。たぶんそう。幸せとか安楽とかよくわからん人生だった。……としか言いようのない日常を送っている人間に対して、どこか優しい視線を向けることができる稀有な才能を僕は持ち合わせていない。
「自分を改めて(新ためて)真剣になにかの信仰(儀式?)に打ち込んだら救われた」っていう話が身近にあったから、じゃあ手っ取り早く神でも信じるかと思って、僕に某宗教映画のチケットをそっと渡したあの人に「僕、救われたいんですけど……」と言ってみようかと思ったけど、そんな勇気もなく、きっとこれを一生やるんだ、死ぬまで、と、またひとつ諦めて、本当に本当に疲れた。

 

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9/24 20:50

一人称が変わる

 夏休みが終わって久々に人と会話した。久しぶりな会話に緊張していたからか、はたまた気持ちが昂っていたからか、まあどっちでもいいんだけど、一人称が定まらずにコロコロと変わりながら話していた。「そうだね~アハハ(あ~、今一人称がめっちゃ不安定になってるやばい、、)」って感じ。気付かれていなければ事なきを得られるのだけれど、この記事を読まれると思うと、、、はい。

で。一人称が「変わる」と言っているけど実際には「変えている」です。正確に言うと無意識で「変えている」から「変わる」って書いてる。このことはそんなに重要じゃないんだけど、そういう意図があるよってこと。それで、僕が普段人と会話するときに使い分けている一人称は「僕」と「私」と「俺」の3つ。あ、今「僕」って使いましたね。この使い分けには当然ながら意図があって、「僕」と「私」と「俺」は全部自分なのと同時にそれぞれが1つの主体としての「自分像」になっているから。今回はその意図についてつらつらと。

 

「僕」はどんなときに使っているか。個人的なことを言うとき。人と面と向かって話しているとき。文章で思ったことを書いているとき。

現実で一番使っているのがおそらく「僕」。この「僕」という自分像はかなり個人的な、色の強い「自分像」。一番長く(多く?)「僕」でいるからかこの「僕」が一番自分らしい自分像だと思っているし、それだけに好きであり嫌いな自分。好き嫌いがキッパリとはっきりしているしかなり偏屈だしそれでいて超頑固。だからか個人的な「僕」で人と話すのは躊躇うというか憚れるから、人と話すときはなるべく「私」でいるようにしている。意見を求められたときには「僕」として答えたいと思って普段過ごしているけど、緊張しているとなかなか難しいらしい。恥ずかしい。

僕が思う「僕」らしい記事を選ぶならこれ。タイトルの癖から、文体の整っていない具合から、訳の分からない写真チョイスに至るまでのすべてが「僕」っぽい。特にこの

(略)

見栄でなく、本当に心の底から楽しんでいる人は文化的だと思う。文化というのは冗長性のことだと思います。

紆余曲折している人は偉い。

という部分の、思う(口語)→思います(丁寧語?)→偉い(言い切り)が実に。自分っぽいから好きなんだけど、文体を保っていられないから推敲するときに余計時間かかるんだよね。そんな手間も嫌いじゃないけど面倒だよ。次。

「私」はどんなときに使っているか。人前で話すとき。公的な場面。文章で真面目に考えたことを書くとき。

この記事なんかは最たる例だと思う。一人称が「私」。そしてほぼ一貫して体裁が保たれていてなおかつ丁寧語・敬語・ですます口調。この記事は真面目に推敲・添削してるから際立っているけど、「私」の理想像はこれ。「私」でいるときは、公平でありたいとか純粋(純白?)でありたいとか中立でありたい正しくありたいとかそう思われるけど、根本的なところには「許す」っていう考え方があるのが「私」。「そういう考えがあってもいいんじゃない?」とか「間違っていてもいいじゃないか」とか「そういう意見もあるよね」みたいな。この「自分像」でいるのは正直厳しいしキツい。けど、持っていて便利な場面は多い。助けられることも少なくない。自分が自分に助けられるって冷静になると意味わからないけど「私」は本当に心強い。次。

「俺」はどんなときに使っているか。小中学校と一部高校の友達と一緒にいるとき。競技をしているとき。そんなもんか。

「僕」と「私」は聞いたことあるけど「俺」を聞いたことない人がほとんどなはず。きっと。自分でもこの「俺」っていうのはブイブイ言わせるようなクソガキ感が否めなくて苦手なんだけど、これまたメチャ有用。しかも使いやすいったらありゃしない。何に使うかってそりゃ体育会系でありたいとき。ハキハキ元気で、超負けず嫌いで、気合と根性で何とかする、みたいな。この「俺」でいるとそう思われて扱われるから自分としても扱われやすいしこっちもこっちで扱いやすい。ただまあ察せるように融通が利かないしそもそも体育会系のノリも雰囲気も嫌いだし何より粋じゃないから、ね。はい。

この2記事が「俺」っぽいかな。特に前者。今この文を書いているのは「僕」なんだけど、この「俺」の考えることや言いたいことは理解できるけど納得はしたくない。というかそもそも好きじゃない。どっちかというとむしろ嫌い。はい。

 

さて、前置きだけで1800文字を超えてしまった。そもそもこの使い分けは無自覚でしていて、高校の時に人から指摘されて初めて気付いた。そこから「なんで使い分けてるの?→どう使い分けているか整理する→考察・納得する→便利・有用なものだと気付く→以降意識的に使い分けするようになる」という具合に事が運んで現在に至る。さっきも書いたけど僕らしく個人的なことを言うのは憚れると思ってることに対して「いやいやなんだよそれこの世の意見のほとんどは個人的な意見じゃないか元をたどってみれば詰まるところ全部個人的だろ何言ってんだお前」とか言われそうだけど、いや何回も言われてるけど、そうじゃなくて。誰にでもある自己愛や利己愛で助長されるような個人主義という性癖が好きじゃない。だからそうしてる。そして付け足して言うと今「好きじゃない」っていう表現をした。好きじゃないなら嫌いって表現すればいいと思うかもしれないし、そう思う自分もいるけど、「嫌い」っていうマイナス方向への直接的な表現が好きじゃないんだよね。ほらまた使った。うそ、これはわざと。それはどうでもよくて。じゃあなんで好きじゃないのか、なんでわざわざその表現を、使い分けをしてまでしているのか。

もう1つ別の例を出します。

f:id:imkotaro:20170922221723j:image

後輩とのLINEスクショ。

んで注目してほしいのが下から2行目の

「よくないと思います。」

この部分。よくないと思うなら直接的に「ダメです。」とか「悪いと思います。」とか「人としてどうかと思います。」と言えばいいのに、わざわざ「よくないと思います。」という表現を選んでる。いや、そんな断言的なニュアンスではなく軽いものかもしれないし、本当はそこまで考えてないかもしれないし、予測変換でパッパッって打っただけかもしれないけど、けど、それでも、この表現を選んで、それでいいやって思って送信したってことはですよ、そう表現したということは、つまりそういう表現をする自分として相手にそう思われたいってことなんですよ。(!!!!!!!!!!!)

つまるところ何が言いたいかと言うと、わざわざそんな一手間掛けた言い回しを、表現をするってことはやはり意図ありきでやっているということで、それは自覚のあるなしに関わらなくて、名は体を表すようにその人の在りかたというか、その人自身がそう在りたいと思って(考えて?)いる「自分像」を垣間見ることができるんです。

そしてこのことに気づいて、改めて、じゃあ、僕は、私は、俺は、自分は。どう在りたいのか。

 

 

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9/22 22:25

はい。

『JK』考

あさ かじかむ指先
にぎるハンドル
スカートの中を
通り抜ける空気

重たい瞼をあけて
明け方の街走る女子高生
冷えきったサドルが
発育途中の身体震わせるの

顔や身体 骨の形
足のはやさ あたまのよさ

なにからなにまで
違うもの同士 こうして
同じ衣装身にまとって
同じ箱の中で
整列した机・椅子に座り
なにか学んでいる
なにかを学んで
気づけたものが勝者
その他敗者
毎朝同じ同じルート・ループ
ぐるぐる回ってんの
気づいちゃったわたしは
校則からの拘束
遠のく王国から
逃げ出すように
歯向かってる自分勝手

明日はだって来ちゃうでしょう?
逃げ出すように春に向かってる

春はなんで来ないんだろう?
私の制服は桜と共に散る

重たい瞼をあけて
夕方の街走る女子高生
冷えきったサドルが
発育途中の身体突き刺すの

DAOKO 『JK』 より引用

この曲が示唆する「JK」から飛び抜けた「私」のJKという存在への執着と憧れに惹かれた。もちろん僕は平々凡々なDKだったので「やばいJKまじかわいい」とかそういう話をする高校時代しか過ごしてこなかった訳だけれども、この曲を聴いていると不意にあの頃を思い返させてくれる。

高校を卒業してからずいぶんと長い時間が経ったと自分では思っていたけど、ちゃんと数えてみればほんのわずかな間だった。もちろん1週間前とかそういう訳ではないが、人生の中で見ればわずかとしか言えないような時間しか経っていない。僕はたしかに文科省の定めるところの高校の課程を修了したし、卒業もした。けれども僕が高校生としての行いを終えられているかといえば、自信をもってはいと答えられないのが実際なのだ。

高校という場所はなかなか不思議な場所で、見た目も中身も頭の中も全部違う人たちが、似たような格好をして一つの空間に放り込まれ、同じことを刷り込まれる。毎日少なくとも8時半から15時半まで、他人が1つの場所にわざわざ集まって共同体を形成する。過去は美化されるというけど、それにしてもあのキラキラとした純粋さは一体何だったのだろう。大学に入ってからはますます心が汚れるばかりな僕にはあの高校時代があまりにも眩しすぎる。

高校生であるというのはそれはそれは有利で、何よりまず娯楽が安い。映画が特に安い。酒や煙草を嗜むことがないからその類の嗜好品にお金がかからない。制服を着れば「身分」を簡単に得ることができるし、学内であっても何かしらの「地位」もまた凡そ得られる。高校生としての行為は、おそらくこの「身分」に立脚していると思う。高校時代の僕は、一端の学校の中での何者かではあった。僕を示すものは名前と所属以外にもあって、それは高校生という共同体の中で僕を十分に特徴付けてくれた。また、社会の中で「制服」は自己を特徴付ける最も有用なものだった訳だ。そして、その何者かとしての儚い行いこそが高校生としての行いだったのではないかと、今になって妄想している。

その一方で大学はどうか。大学構内を歩いていて、もし自分が有名なサークルの幹事長であったとして、それを名乗られずに気付く人がどれだけいるだろうか。たとえ体育会野球部のエースが歩いていたってほとんどの人は気付かないだろう。大学は、誰もが何者でもいられない空間なのだ。言ってみればみんなが路傍の石で、構内ですれ違うはちゃめちゃにかわいいJDと僕は同じく他者であり、お互いに何者でもないのだ。ただ、キャンパス内であればある程度大学生だと認識はされるが、一度構内から出てしまえば自分が大学生であること、ましてやどこどこ大学の学生であるなんてことはわかりっこない。つまり、アイデンティティは拡散する一方なのだ。

僕が卒業できないこと、それは自分が「何者か」であるという意識からだ。僕はそれなりに真面目な学生生活を送っていたから、一端の学校という社会の中での地位は有していた。僕は、同級生にとってかけがえのない存在であったと信じているし、僕にとって同級生もまたかけがえのない存在であったし、今でもそう。そんな素晴らしい実存的な交わりを経験してしまったからには、そういう交わりを求めようと試行錯誤し続けてしまう。僕は、高校からは卒業したが、高校生としての意識からは残念ながら未だ卒業できていない。

卒業とは、字義から言えば何らかの行いを終えること、つまり業を終えることだ。しかし、この世の中そうすっぱり終えられる業ばかりではない。人と人とが関わることには全て業が起きるけれど、その業とは人が関わるからこそ終わりのないものになる。何かから卒業するということは、極めて表面的な終わりを示しているだけで、心からの卒業というものは、一種の諦めのような、そんな瑕疵的な自己否定なのかもしれない。

 

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9/8 2:05