完甘美の空腹

raison d'être

自分の「意味」

imkotaro.hatenablog.com

前回からの続きになります。

 

自分の「意味」を見出すことは、偉いことでも何でもない。ただの不可避性である。若くして、自分の「意味」を見出してしまう人は少ないかもしれないが、私の知る限りでは全くと言っていい程にいない訳ではない。それに自分の「意味」を見出したからと言って、だれか他人と不仲になる訳ではない。敬遠されることはあるかもしれないが、爪弾きにされるほどのことではない。逆に、「あの人はいいよね、自分の世界をもっているから」と揶揄されるかもしれない。相応に年齢を重ねた人であっても、世間的な価値にずぶずぶな人もいるだろう。そこには生き方の好き嫌いがあるだけで、どちらが上、という話ではない。「意味」をもってしまった者は、それで生きていくしかないだけなのだ。なぜかはわからないが、ある物事に取り憑かれ、それをすることが何より楽しい、ということがある。そういう人は所謂「幸せ」なのだろう。それは「世界一」になったことや「評価」されたことが、ではない。「報われなくていい」と感じているからだ。すなわち、努力をするその過程が「幸せ」そのものなのだ。ある一事への没頭であり、無我夢中である。その時に自我は無いはずなのに、無いはずの自我が愉しんでいるのである*1

若干17歳で通信員として硫黄島戦闘に参加し、奇跡の生還を果たした秋草鶴次が執筆する『十七歳の硫黄島』という本の一節を引く。

2006年に放送されたNHKの「硫黄島玉砕戦─生還者61年目の証言」という番組に秋草鶴次が登場し、その終盤でこう語った。

「(戦友)が死んでね...、意味があるんでしょうかね。どうでしょうかね。だけど、無意味にしたんじゃ、かわいそうですよね。それはできないでしょう。”お前、死んで、意味無かったな...”っていうのでは、酷いですよね。家族に対してもね。そして、どんな意味があったというと...、これは難しいんじゃないですか?まあ、(亡くなった戦友たちに対して)俺はこういう生き方しかできなかったんだ。勘弁してくれって言うだけです。これで許してくれ、これで精一杯なんだ、と」

オンエアはされなかったが、実際の発言はこう続いた。

「どんな意味があったか、それは難しい。でもあの戦争からこちら60年、この国は戦争をしないで済んだのだから、お前の死は無意味じゃねえ、と言ってやりたい」

秋草鶴次『十七歳の硫黄島』文春新書

十七歳の硫黄島 (文春新書)

十七歳の硫黄島 (文春新書)

 

私たちが本当に欲しいのは、この「意味」ではないのか。もちろん社会の中で生きている限り、お金や立場やモノや仕事の価値は無視できない。生活していくためにも最低限必要である。様々な言い方ができるだろうけれど、ざっくりと言ってしまえば、人が働くのは、自分が自立して生活していくためである。無論それだけではない。他人から認められることは、「自分*2」の価値化でもあるのだ。

もし、望むすべての価値を手に入れたとして、果たしてそれで人間は「完成」なのだろうか。例えば、スポーツ選手が移籍をする際に、お金のためではない、と主張することがある。サッカー選手には、戦力外通告をされても、無給で構わないから、と下位クラスのチームに入る者もいる。世間的な価値でいえば、「ただ働き」である。とりわけ女子サッカーの多くの選手はアルバイトをしながらリーグ戦を戦い、世界を目指している。なぜそこまでするのか。その場所で生きることが、その人にとっての「意味」だからなのだろう。秋草は、「お前の死は無意味じゃねえ、と言ってやりたい」と言う。しかし、本当は意味も無意味もないはずである。ただ戦争に駆り出され、死にたくないのに、死んだ。それだけのことなのだ。死んでしまった本人にとっては、もはや意味も無意味もない。ところが、自分とは何の関係もないのに、横合いから、それはただの犬死だ、意味は無い、と物知り顔でいたがる手合いがいたのだろう。また、秋草は「だけど、無意味にしたんじゃ、かわいそうですよね」とも言っている。これが、人間が生きるといことなのではないか。死者にとっても、その家族や近親者にとっても、その「死」に意味が無いことは「酷い」ことなのだ*3

もちろん、人生に「意味」は無い。自分は何のために生まれてきたのか、に「理由」は無い。宗教も、幸福も、文化も、芸術も、人権も、自由も、平和も、お金も、家族も、恋人も、突き詰めてみれば、すべて観念による創作である。実利として働くのは物理、工学、建築、医学くらいなものだ。それ以外の理念や観念には何の根拠も無い。人類が生存していることにも意味は無ければ、世界が存在していることにも意味は無い。ただ、その観念の創作物によってつくりあげられているのが私たち人間の営々たる歴史であり、現在の人間社会である。しかし、観念で世界を構築してきた人間の叡智は凄まじいものであって、その最たるものが「価値」であり、「意味」である。実際に考えてみれば、ダイヤモンドや世界一の称号には何の価値もありはしない。人間がそれに価値を与えたのであって、私たちはその枠組みの中で生きている以上、与えられた価値に倣うしかないだけなのだ*4

自由や人権を頭の中から外してみる。宗教も芸術も文系の学問も、一切外してみる。実際、外すことは可能だ。そのとき、人間に最後に残る確かなものは何だろう。思うに、それは過去でも未来でもなく、「『今、ここ』に自分が生きている」と、「好き*5」という実感だけだ。すなわち、人間社会で掛け値なしに本物*6と言えるものは、「『今、ここ』の自分」と「愛情」のみである。以前、「家族の絆は脆い」というような事を言ったが、それは「絆」という言葉がそうなのであって、その根底にある「愛情」は残るだろう*7。「愛情」は人間が観念でつくりあげたものではない。人類の出現とともに生じ、人間が滅亡する最後まで存在し続ける、たった一つの確かなものだと思う。ただ、行き過ぎた「愛情」は時に「甘え」になり得る。恣意的な「愛情」は「わがまま」でしかない。私たちが社会の中で生きている以上、「独り善がりの愛情」に一理も無い訳ではない。社会参加も社会認識も社会貢献も必要なことではあろう。しかし、誰もが社会を動かしたい訳ではない。ましてや動かせる訳でもない。その社会さえも外してみれば、「独り善がりの愛情」でもいいのだ。

私は、お金と私たち人間の幸福とは本質的には関係が無いと感じ、たとえ孤独でも平気で生きることはできると思い、いざとなれば死んでもいいのだ、と考える。考えるが、この考えの中には幾分無理が入っている。その理由は、揺らぐことのない確固とした自己承認を求めすぎる、という点にある。なぜ動揺や不安が収まらないのか。それは、自己承認とは、他人から何をどう言われようと、どう思われようと、「自分はこれでいいのだ」と自得することであり*8、可能な限りの誠実と公平さにおいて、自分には「こうする他にない」と考えることだ。ところが、この意志さえも、最後の最後で揺らぐ*9。自分で考えておきながら、「これでいい」には、常に「これでいいのだろうか」という逡巡が付き纏い、100%完全には信じ切れないのである*10。結局、自己承認は揺らぐものなのだ。それを無理に揺らぐまいとしたり、不安を抑え付けようとすることこそが誤りである。自己承認は、揺らぐことのない確固とした承認を与えることはできない。不安や不満が継起する「自分」を含めて承認することである。揺らぐ「自分」を「弱い自分」と見做すのが、そもそも間違いなのだ。

ただの悪口なら、気にはなるだろうが、断ち切ることだ。そのうち、忘れる。否定的な評価なら、吟味する。それでも自分が正しいなら、これも断ち切る。反論する必要があるなら、反論する。自分が非なら、受容し、反省すればいい。ただの感情的な反発は何も生まれないが、受容し改めることは、強くなっていくことである。それ以外に自分が強くなる方法はない*11。何度自己承認が揺らいだとしても、その都度強く打ち立てればいい。そして、そのうち「自分はこれでいいのだ」と、自分に語り掛けることさえもが面倒に感じるようになれば、なお喜ばしい。そのとき、証明欲求や承認欲求は免れ難いにしても、意図的な証明欲求も承認欲求をも超える、「反」でも「非」でも「脱」でもない、「超」承認が可能になるかもしれない。他者からの承認が齎されても、齎されなくてもいいのだ。承認欲求は本能的である*12から、感情的な反発だけでその欲求を逸脱することはできない。自己承認は、云わば冷静かつ理性的な仕事である。証明しようともしないとも思わない。承認を要るとも要らないとも思わない。こういう境地に至れればいいのだが、無理なら無理でいいのだ。承認欲求は自然意志として確かに存在する*13が、意図して目指すものではない。ある行為の結果、齎されるものである。それを目指している限り、行為としての純粋性は損なわれる。余計な意識が邪魔になるのだ。自然意志を超えるのは、行為への人間的意志だけである。具体的に言えば、仕事への没頭であり、関係への誠実さである。承認欲求を超えるのは、それしかない*14

私にとっての「意味」とは、「価値」であり、「表象」であり、「美しさ」である。これは、私以外の人間からしてみれば何の「意味*15」も無いことではあっても、私にとっては何物にも代えがたい「意味*16」である。そして、私たちが本当に欲しているのは、このような「意味*17」ではないだろうか。証明欲求や承認欲求が「一人」になることへの本能的な動揺と不安に起因しているとするなら、その欲求によって真に欲していることは、つまるところ、自分の「意味*18」ではないか、と思う。世間での評価はこうだが、自分は違う。世間での流行や言葉は、自分は追わないし、遣わない。世間の趣向はこうだが、自分は違う。これもまた然り、卑近な「意味*19」であろう。決して無理に反世間を気取るのではなく、もし世間の「意味*20」に違和感を覚えるようなら、その自分だけの「違和感」は肯定するべきだろう。確かに、世間の「意味*21」に従っていれば楽で安心できるかもしれないが、その実、世間は個人的な「意味」をもつことに対して風当たりが強い。しかし、他人にとっては無意味だが、本人には意味がある。自分だけの価値、それが自分の「意味」なのだ*22

これこそは、私たちは誰か他人への証明がしたい、ということではなく、自分の「意味」を自分自身に証明したい、ということではないだろうか。

 

f:id:imkotaro:20180629001118j:plain

Karl Wilhelm Diefenbach "Asking the stars"

*1:おそらく、「証明」も「承認」をも超えているからだろう。

*2:自分自身。

*3:秋草がこのように考えることは、承認を超えているのである。

*4:個人的に、人間が創作した最高傑作は「神」であり「人権」であり「自由」だと思う。

*5:或いは「愛している」。

*6:いわゆる「確かなもの」。

*7:言うまでもなく、男女間における「愛情」も同じである。

*8:世間的な価値に照らし合わせると所謂「間違い」ではあるかもしれないが。

*9:「揺らがない自己承認なんてない。」 自尊心 - 完甘美の空腹より。

*10:要するに「自我執着」があるということ。

*11:おそらく。

*12:証明と承認 - 完甘美の空腹自尊心 - 完甘美の空腹より。

*13:『定本 育児の百科』考 - 完甘美の空腹より。

*14:おそらく。

*15:いわゆる「価値」。

*16:同上。

*17:「(自分だけの)意味」。

*18:同上。

*19:同上。

*20:いわゆる「普通」、「常識」、「価値観」。

*21:同上。

*22:反例として、(不特定多数に)モテたいというのは世間的な価値である。

「承認」はいらない

imkotaro.hatenablog.com

前回からの続きになります。

 

自我の渇望からか、傲慢からか、それとも屈託からか、理由はともかくとして、「他人からの承認なんかいらない」「誰彼構わず自分のしたいようにする」という存在の仕方は可能だ。実際、そういう人もいるだろう。共我などどうでもよく、自我全開の生き方である。

ただ、そう簡単には問屋が卸さない。「承認はいらない」と口では言っていてもその実「無縁の他人からの承認は不要」というだけで、仲間内の承認だけは欲していたり、本当は承認されたいのだがその力が無いために「そんなものはいるか」と格好を付けていたりするケースがほとんどだからだ。真に自信のある、落ち着いた自己承認ができるためには、相応の力が必要なのだ。

承認を不要とする在り方は、おそらく3つに分類できる。

1つ目は、「反承認」という在り方だ。これは「他人からの承認なんて自分には関係ない」と自分から承認を拒否することである。自分が承認されないとわかっているので、「そんなものに意味は無い」と先手を打って最初からそんなものは認めていないという姿勢を見せるのだ。地道な研鑽を必要とする能力的承認や人間的評価に対置するのは、威圧、無作法、暴力であって、この種の人間はいじめ集団や暴走族のようにどうして概ね群れる傾向にある。世間から否認されるが、逆にその否認において自らの存在を誇示できると考えているのだろう。仲間内では承認を求めているため、すべての承認に対して反している訳ではない。

2つ目は、「非承認」という在り方だ。これは最初から「承認する-承認される」という舞台から逃避している。言ってみれば「他人からの承認など一文の得にもなりはしない」という実利主義的な立ち位置である。彼らからしてみれば、得になりさえすれば恥も外聞も無いのだろう。損得勘定だけが唯一絶対の価値観で、損得の基準は自尊心とお金である*1。そんな自分は上手く立ち回っているという自己肯定が自身の証明になっている、と思い込んでいるのだ。他人など不在であり、自己膠着していることに気付かない。典型例が所謂クレーマーである。彼らは自分は正しいと思っているが、正論も振りかざせばその途端に暴論、詭弁になり変わるのだ。しかしながら、この手の人間も会社や隣近所ではその顔を隠して自分を証明し、ちゃっかりと承認も手に入れているため、如才ないと考えることもできるかもしれない。

3つ目は、「脱承認」という在り方だ。これは承認の必要性こそ認めているが、確固たる承認は求めない。「自身を証明できた」と思えればそれで満足の自己証明だと認識する。基本的にはインターネット世界がこれに相当すると言っていいだろう。今日のインターネットを見れば、至る所にあらゆるメディア*2を論じ、批評している人が散見できる。Twitterや各ブログサービス、YouTubeがその最たる例だろう*3。特徴は、何より「匿名」ということであろう。匿名であるが、その大半は真面目だという印象がある。例えば、通常の承認世界においては、これまでは実名で自費出版をして仲間内や世間から認められたいというのが典型であった。しかし、脱承認にはこれがない。自分は「自分」なのだが、あくまで「匿名の自分」なのだ。自身のレビューが公開されることも充分に満足だが、それに何人かが賛成してくれたという反応もまた然り嬉しいのだ。必ずしも実名の認知に拘泥せず、「実はあれって私なんだよ」という秘めたる満足があるのだろう。これは基本的には自己証明だけの世界であり、「承認されているはずだ」という自己満足の世界と言っていいい。

これは、「承認」を巡って3種類の区別できる人間がいるということではない。3種類の「承認」という姿勢が可能、ということだ。嫌味な上司も家に帰れば良いパパ、良き夫、ということは少なくない。時と場所と場合によって、私たちは多かれ少なかれ、誰でもこの3種類の姿勢を使い分けている*4。そして「反」と「非」と「脱」で最も厄介なのは、言うまでもなく「非」である。先ほど3種類の人間がいる訳ではない、と言ったが、「非」一辺倒の人間が例外的に存在する。何を隠そう、実利は強いのだ。彼らに共通していることは、何をおいても自我が最優先という事だろう。だからこそ、彼らは絶対に自分の「非」を認めようとしない。その代わりに、常に「非」を他人に転化し、執拗に謝罪を要求するのだ。この人間だけは本当にわからない。彼らに共我が無い訳ではない。自我の衝突は勝っても負けても確実に不愉快なものであるが、共我による親密な関係は確実に楽しいからである。共我を欲しない人間はいないのだ。

つまるところ、自己証明も承認欲求も、「一人になりたくない」ということなのではないかという気がする。おそらく、誰もが証明欲求からも承認欲求からも自分だけが脱落して、一人になるのが怖いのだ。「一人」であることは、それだけで既に「弱者」であり、「敗者」であり、「みじめ」である、と思っているのだろう。或いは、自分が他人からそのように思われることにも耐えられない。だからこそ、過剰に証明をしたがり、承認を欲する。どこの国のどんな人間だって、一人でいることは「嬉しいこと」ではなかろうが、私たちが暮らすこの社会は、一人であることを忌避し、蔑み、圧迫するような言説が多過ぎるのではないだろうか。

普段私が過ごしている「大学」という場所においても、一人で昼食を食べることや講義を一人で受けることを「みじめ」だと見做す価値観*5から、その片鱗を垣間見ることができる。例の如く、これも少数の事例を誇張している節があるだろうが、ただこの社会では、それほどまでに「一人」でいること、たかだか「昼食を一緒に食べる友人がいない」ことが、「みじめ」だと考えられていることの反映ではある。加えて言えば、一人で死ぬと、「あってはならない死」というニュアンスで「孤独死」という言われ方がされる。この言葉選びの感覚こそが、私たちを「一人」にさせる一つの要因なのではないだろうか。

たとえ価値観が違う人間であっても、「努力」や「優しさ」や「勇気」は誰でも承認するはずだし、故に、このような「道徳的行為の価値」を確信できるなら、「身近な人々に承認されない不遇感や承認不安」に耐え、「自己価値を信じること」ができるというのは、ある程度正しい。自分は間違ったことをしていないと思えることは、自身に繋がるからである。しかし、これはどうして自分の思考回路を覗かれているような気分になる。自分で自分を騙して、無理矢理に「よし、これで私の意志も自由も確保できている」と思い込もうとする心理洗脳みたく感じる。必要なのは、「ごめん。今日は疲れたから遠慮する」という一言だけだ。そして大抵の場合、それで「わかった」となるはずである。もし、それでとやかくいうような「仲間」なら、そんなものは付き合いをやめてしまえばいい。

私から言わせてみれば、「証明も承認も欲しい」というのは虫が良すぎる。証明と承認の葛藤はしばしば対人関係的な部分において生じるが、例えば、結婚して「自由がなくなった」と嘆くのは、ちゃんちゃら可笑しい話だ。自分が嫌なときは断るくせに、自分の都合で友達を呼びつけておいて、断られると腹を立てるのは、友人でも何でもない。本当は嫌なことだけど「一人になるのが怖いから我慢する」というのは、恋人ではない。お互いに束縛しないという自由な関係は、私には考えられない。つまり、相互に証明と承認を幾分か抑えるしかないが、本当に「自由」が欲しいのなら、承認は諦める他にないのだ。社会的な承認の場*6では、基本的に証明や承認と自由は抵触しない。仕事の評価と自由意識には関係が無いからである。パワハラやセクハラは公的な体裁を取り繕ってはいても、結局は仕事にかこつけた承認の問題だ。尤も、そんな相手は性根の腐った人間であるから、もし自分に戦える弁えがあるのなら戦えばいいが、「三十六計逃げるに如かず」よろしく逃げるのが得策であろう。自分を責めることはない。それは弱さではない。

 

f:id:imkotaro:20180621222732j:plain

Francisco José de Goya y Lucientes "La duquesa de Alba y su dueña o La Duquesa de Alba y “la Beata”"

*1:こういう在り方も一概に「間違っている」という言い方は可笑しいのかもしれないが、私から言わせてみれば真に大切なのは「得」ではなく「徳」だろう。

*2:書籍、映画、音楽、政治、アニメ、グルメ、アイドルなど。

*3:もちろんこのブログもその例に漏れない。

*4:「使い分けている=持ち合わせている」と言ってもいい。

*5:いわゆる「ふつう」の価値観。

*6:会社、組織など

たかが他人、されど他人

私たちは、本当に他人なんかどうでもいいのだろうか。

誰も彼も、ただの通りすがりの他人だ。そこに時々、「俺、強いんだぞ」「私、かわいいでしょう」「自分は偉い」などのオーラを必死に醸し出したりしている人間がいたりする。そんな通りすがりで証明をしても、承認を期待しても意味が無いのに、そうは思えないのだ。実際に、証明も承認もできないのだが、自分で証明できたと思え、承認されているはずだと思えるなら、それでいいのだろう。

自己証明欲求承認欲求も、そもそも他人がいなければ生じるはずもない。言うまでもないが、自分以外に人間はすべて他人である。人は生まれてから死ぬまで意識しているのはほとんど「自分」だけであり、たとえ親密な他人(家族,恋人など)であっても、その人のことを四六時中意識することはまずない。それは安心しているからであって、もし親しい誰か他人が病気になったり事故に遭ったりすれば、心配は絶えないということになるかもしれないが、本来意識というものは自分以外の人間に四六時中寄り添うようにはできていないのだ。他人とはいえ、当然他人との距離によってその親密度は違う。言い方が露骨になるが、「他人」は、「どうでもいい他人」と、「どうでもよくない他人」に大別できる。ここで言う「どうでもいい」とは、つまるところ「その人(の命)がどうなってもいい」という意味だ。これが冷酷な言い方なら、見知らぬ他人の死には感知することができない、と言ってもいい。私たちは、ニュースや新聞の報道で見知らぬ人の死を知ったとて、大きく動揺することは殆どない。そうでなければ、素直に生きていくのは難しいだろう。

ところが、ニュースで火山が噴火して泥流に人々が襲われる映像を目にすると、どうして「助かって欲しい」と思う。その人を個人的に、見るか見ないか、知るか知らないか、の違いだ。共感する人間がいい人間であり、冷淡な人間が冷酷な人間である訳ではない。

自分以外の存在を全て「他人」と認識すれば、他人はおそらく4つに分類できる。

1つ目は、最も親密な「家族」という他人だ。家族を「他人」と認識するのか、という意見もあるだろうが、私から言わせてみれば家族をも「他人」と考えた方がずっとスッキリする。自我が厄介というのは、他人もまた自我(他我)をもっていて、その自我と自我の関係が厄介だからである。親子、夫婦、兄弟、姉妹といえども、その自我と自我(他我)の関係である以上、ズレ、誤解、齟齬、軋轢、相克、離反が生じるのは至極当然なのだ。そして家族の中で最も脆いのが「夫婦」であることは言うまでもない。そんなに脆いものでもないが、所詮、条件的、或いは交換可能な結び付きだからだ*1。次に「兄弟・姉妹」、最も強いのが「親子」であるが、これとて自我と自我(他我)の関係が煮詰まれば、親殺しや子殺しは極端にしても、多少の軋轢や相克は免れ難い。

未だ記憶に新しい震災以降、結婚するカップルが増えたり、写真スタジオで家族写真を撮る家族が顕著に増えているらしい。結局、最後に頼りになるのは家族だとか、「絆」の証拠写真を撮っておこうとか、意外と家族の土台は脆いもので、あっけなく崩壊してしまうものだという不安でもあるのだろうか。さりとて家族が大切なのは当然であるが、あまりにも「絆」などと言い出すと自分の家族だけよければ他はどうでもいいといった特権性や排他性が感じられるので、この言説が私は好きではない。他にも「感動をありがとう」や「元気をもらった」と同じ類のテンプレートのように思えて、「絆」なんぞをわざわざ口に出していうことなのだろうか、と考えてしまう。

親子や兄弟や姉妹、特に親子の特異性は、どんなに自我同士の対立や離反があっても、根本的には相互の(多大な)受容があるという点にある。とりわけ親にとって子供はそうだ。我が子の存在を失えば自分の半身が千切られるように感じ、我が子の喜びや悲しみはそのまま親の全身の喜びや悲しみとなる*2。親が子を想うほど、子は親を想わない。しかし、子がいちばん証明したい人、褒めてもらいたい人は、やはり親であろう。あなたが育ててくれた私は、ちゃんとこの社会の中で生きていけるようになりましたよ、と。

2つ目は、「友人」や「恋人」という他人だ。お互いに心を許し合った、いわば特権的な他人である。家族(親,兄弟,姉妹)が特権的でないのは、あって当然の存在と考えられているからだろう。家族のありがたみは失われてみないと分からない。しかし、この「友人」や「恋人」も、現在においては、「偽の友人」や「偽の恋人」がいる。「偽の」というのが言い過ぎだと感じるなら、「名目上の」、「とりあえずの」友人や恋人と言ってもいい。気が置けない、というのが友人や恋人のいいところであるはずだが、お互いに傷付けない様に、神経を遣い合っている様に見えるからだ。そして、真に「莫逆の友」と呼べるほどの他人をもつことは、昨今では難しいのかもしれない。共我による結び付きは美しいが、それが自我同士の張り合いになると、途端に「あの幸せは何だったの?」「あんな人だとは思わなかった」となりかねない。

3つ目は、「中間的他人」という他人だ。それほど親密ではないサークルの仲間、会社の同僚、バイト先の先輩後輩などがこれに相当する。隣近所もこの中に入ると考えられるが、濃淡で言えば淡い。これは「完全な他人」という訳ではないが、身近な他人でもない、という中途半端な他人である。しかし、自分の生活圏の中心か、或いはその周辺に持続的に位置しているため、無視することができない義理の他人なのだ。基本的には当たらずさわらずの関係で、「挨拶をすれば挨拶を返してくれて、良い人ですよ」という様な、形式的な共我の関係が望まれている。これは形式的な承認の世界だ。しかし、拗れると始末が悪いのもこの関係たる所以であって、例えば挨拶したのに無視された、という程度のことで反目し合うことがしばしばあり得る。友人や恋人であれば会わなくなることで済んでしまうが、こちらはそうもいかない。妬み、恨み、蔑視、侮辱といった嫌な関係が持続するのだ。なるほど嫌な上司がいたり、「いじめ」が発生するのも、この関係である。この段階の「他人」から、どうでもいい他人になるといっていい。

4つ目は、語義通り「赤の他人」という他人だ。赤の他人と言っても、存在していることすら知らない他人はこの世界には実に70億人超も存在しており、最早これを「他人」と認識する意味は無い。この膨大な数の他人を「マス」として必要としているのは、人間を商売の買い手としか見ていないビジネスや人気商売の芸能くらいなものだろう。無縁の他人が意味をもってくるのは、報道を通じてその存在を見聞きした場合だけだ。震災で被災した人々をテレビや新聞の写真で見るとき、私たちは全くの無関心ではいられない。記憶に鮮烈に残る人がいる場合もない訳ではない。しかしそれでも、こちらが一方的に見ているだけであり、しかも心が動くのも一時的だ。被災者のことを考えると食事も喉を通らない、夜も眠れない、ということはあまりない。

現実に問題となる他人は、街中の何処かで出会う双方向性をもった不特定多数の他人だろう。私が彼らを見るとき、彼らもまた私を見るのであって、それまでは全く何の関係も無い一過性の他人なのに、彼らは無数の視線や無数の心として私たちの前に現れる。だから私たちは、外に出るときには外出着に着替え、化粧をしたり、髪を整えたりする。そこで自分を積極的に証明しようとする者もいるが、最低限、恥ずかしくない装い、恥ずかしくない振る舞いができれば、それでまず十分であると思うことができるからだ。ところが、赤の他人であるはずなのに、その他人の言動がストレスになり得ることは少なくない。私たちは見られるだけではない。というよりも圧倒的に見ることの方が多い。そして見ることは評価することであり、或いは、他人の行動を知ることである。すなわち、知ることもまた評価なのだ。

世の中には実に色々なタイプの人間が、様々な生き方をしていて、何が「よい生き方」であるかかというのは決め切れない。ただし、様々な生き方をしている人間が、他人を侵害しないで、それぞれの生き方を追求できる社会であればよいではないか、というのが所謂リベラルな社会の在り方だ。つまり、社会が「不透明」であることを肯定する社会、ということ。例えばパパ活をする女子大生がいる、というだけで、一気に社会や人間の不透明さを感じて、その不透明さをもたらした人に対して憎悪や被害感を抱く人間がいる。パパ活をしている女子大生は「社会に被害を及ぼす訳でもなく誰かに危害を加える訳でもない」のに、そういう存在を知っただけで、「私怨を抱き」「迷惑を被った」と主張する人が現れるのは、おそらく私たちが生きている「社会全体*3が汚される」と感じるからだろう。私もまた公の場でいちゃつくのを嬉しく思わない性分だが、だからと言って別に「憎悪と被害感でいっぱい」になる訳ではない。「社会全体が汚される」というのも大げさに感じる。本当にそういう感情を催す人がいるかもしれないが、それは自己正当化の口実に過ぎない。風紀が乱れ、公序良俗に反する、なんて思っている人間も極めて少数だろう。そんなことよりも、自分の価値観に抵触するがゆえに、ただ目障りであり不快なだけなのだ。

そして、自由な社会で強制されるのは、馴染めない人の存在を許す受容*4だけだ。「存在を許す」とは、「攻撃しない」という意味であって、「仲良くする」こととはまた異なる。寧ろ「仲良くしない」ことが保障されるからこそ、「存在を許す」ことが可能になるのではないだろうか。自由な社会では、攻撃することは許されないが、嫌悪を感じる人との間に距離を置くこと*5が保障される。自分にとって醜悪な人間が大手を振って生きているのを見ることに耐えられなければならないだけで、自分がそのスタイルに巻き込まれる心配は本来どこにも無い。この安全保障こそが、人間社会に絶えず自然発生し続ける憎悪と迫害の力を弱め、一人ひとりが自分なりの仕方で美しく生きる試みを実現するのだ*6

 

f:id:imkotaro:20180610032224j:plain

Alfred Stevens "After the Ball"

*1:それが無条件に昇華すると強い結び付きになる。

*2:このような関係は、近親以外の一他人との間でも十分考えられる。

*3:社会全体≒cosmos。

*4:寛容さ、或いは我慢と言ってもいい。

*5:或いは、生々しい付き合いを拒絶すること。

*6:尤も、お互いが「他人」同士である以上、自分にとって「自分」という人間は唯一無二であるが、そんな「自分」も彼らからしてみればどうでもいい「赤の他人」に過ぎず、好悪もお互い様であるということを忘れてはいけない。