完甘美の空腹

relish the beauty, kindness, perfect

「自殺」について

自殺というものは、言ってみれば「わがまま」なのだろう。いや、もしかすると「わがまま」という言い方は誤解を招くかもしれない。しかし、自殺とは、周りの人の心情を顧みることなく、優先することもなく、ただ自分一人のためにすることだと思う。当然であるほどに当然であるが、そこまで切羽詰まった状況で周りの人がどうこうと考える余裕など一切無い。ここで指す「周り」とは、肉親や配偶者や親友をも含む。そんな大事な人の話さえも、聞き入れる余裕は全く無いのだ。同様に自殺を止めるという行為も、止める人の「わがまま」でしかないと思う。相手が死んで自分が辛くなるのは嫌だから、相手が辛かろうと生きることを強いる。自死*1の前段階にある、そういった攻防というのは、お互いのエゴのぶつかり合いではないだろうか。

高校生の頃、私は人の自殺を受け入れたことがあった。死んで楽になるなら、相手にとってそれが本当に良いことなのかもしれない、と思ってしまったのだ。彼女は私の目の前で導入剤の過剰摂取を断行し、結局、私が呼んだ救急車で病院に運ばれて一命を取り留めた。そのとき、私の中に残ったのは後悔と無力感だった。未だに、私はあの頃の自分を肯定することも、否定することもできていない。何一つとして。

たしか私が小学5年生の頃だったか、父親に自殺の話をしたことがある。私は自分自身が生存に向いていない*2と思っていたから、もしかしたら、そういうことがあるかもしれない、と。だから、覚悟しておいてほしい、という言い方はおかしいけれど、せめて知っておいてほしい、そして許してほしい、と思った。急に息子が身投げするよりも事前に知っていた方が後々楽だろう、と考えていたのだ。当時、父は私にこう答えた。

「そんなのは絶対にダメだ」

曰く、偶発的な死というのは、たとえ受け入れられないにしても仕方がない。しかし、自ら進んで死ぬようなことはこの僕が許さない、と強い口調で告げたのだ。それに私は「そんなのは自分勝手だよ」と答える。すると、父は「勝手で結構だし、僕はそんなことを絶対に許しはしない。自殺したいとか思う前にまず僕に言いなさい。お前の考えてることはきっと僕にはわからないけれど、それでもお前が死なずに済むようになんとかするから、そんなことは言わないでほしい。それに、もし死ぬんだったら僕の方が先だ。その後だったら、お前の勝手にしなさい。」と言い返した。

そんな勝手な話はあるか、と私はクソガキながらに反発した。「本人にとってそれが望ましいことであれば、本人の望むようにさせることこそが相手の尊重ではないのか」とか、そういう趣旨のことを言ったと思う。私の自死*3という行為、それに至った経緯やその結果を理解し、受け容れることこそが、私に対する愛情の形ではないのか*4、と。

「そんなことは知ったこっちゃない。お前な、僕がそんなふうに考えるとでもと思っているのか。そんな見掛けばかり繕った『尊重』とか『愛情』なんて、これっぽっちも意味が無い。お前が僕と違う人間だということはわかってる、僕は僕だし、お前はお前なんだから、お前が考えていること(の全て)はわからないよ。でも、死ぬのはダメだ、それは僕が嫌だから。それくらいなら、僕が先に死ぬよ。」

それは困る。私は自分の話をしているのに、自分のことで人が死なれるなんて、最も望まない。当時、私は自殺*5しようと考えていた訳ではなかったから、そう思えた。何度も言うけれど、本気で自殺しよう、と企んでいる人は他人が死のうがそれどころではない。たとえば、綱渡りをしている最中に「頑張れ!あなたが失敗したら次は私も死ぬから!」などと言われても構う余裕なんてない感じだ。当時の私が思っていたのは、死ぬか、気が狂うか、どちらかだろう、ということだった。「私が死なないとしたら、頭がおかしくなって迷惑を掛けるかもしれない、或いは私の世話を一生する羽目になるかもしれない。車椅子を引いたり、食事や看護といった全てのことさせることになるかもしれない。私はそれが嫌だ。そんなになるぐらいだったら、死んだ方がお互いまだマシだろう。」、そんなことを、私は至極真面目に言ったのだった。

対して、父は「バカなことを言うんじゃない、死なれることに比べたらそんなことは大した問題じゃない。僕が何歳まで生きられるかわからないけど、お前がそんな状態でそのままおっさんになっても、僕が生きている間は、ずっと世話でも何でもする。僕が死んでからはどうしようもないから、勝手にしていい。だから、せめて僕が生きている間は死なないでほしい。」と切り返した。

正直、「めんどくさい親だな」と思った。どうして私の気持ちわかってくれないんだろう、って。私は、子供のころからずっと、私の理解者を求めていた。最も近しい(と思っていた)父ならば、私の言わんとしていることを理解してくれるかもしれない、と期待していたのだ。だから当時、父にそう言われた私はひどく悄気ていた。違うだろう、そうじゃないだろう、と。だって、私は礼儀として言ったつもりだったのだ。予め知っておいた方が相手も少なからず楽だろうと思い、告げたことに対してこんなふうに返されるとは考えてもみなかった。言ってみれば、私の意見は全否定されたのだ。しかし、今考えてみれば、私の父は10歳か11歳そこらのクソガキの生意気な屁理屈を真面目に聞き入れるだけでなく、それに本音で正直に返してくれた、とても丁寧な人だった。結局、父はそれから程なくして癌であっさりと亡くなったが、本当に多くのものを私に残してくれていたことに、最近になってようやく気がついた。願わくば、諸々の感謝を伝えたい*6

私と父とでそんなやりとりをしたことを、冒頭で触れた自殺未遂の当事者になった後に、ふと思い出した。「どうして私は父と同じ態度を彼女に示すことができなかったのだろう」、私はそう強く悔やんだ。結果として彼女は助かった。それはいい。しかし、そういう問題ではないのだ。彼女に対して、父が私に言ったような態度を取れなかったのは、彼女が他人だからだろうか。いや、そんなことは関係ない。父は「親だから」みたいなことを理由として語ったけれど、本当は違うのだ。そんなことは分かっている。事実、世の中には子を顧みない親なんて腐るほどいる。それは正常とか異常とか、そういうものではなく、純粋に相手を一個人として捉えたときの、その人に向けたエゴの深さの差に過ぎないのだと思う。そういう意味では、私の父は私に対して強い情を持っていたし、私もそれを十分に感じている(当時はあまり気づけなかったけれど)。

さて、私が彼女の自殺を止めなかったのは、まず第一に、相手を理解している「つもり」だったからだ。彼女にとって、生きることよりも死ぬことの方が幾らかマシな選択であり、それに同意することこそが彼女への理解という誠意の形であり、私のできる最大限の尊重である、と信じていた。しかし、仮に彼女が死んでしまっていたら、私は今以上に悔やんでいただろう。彼女が生きている今でさえ、こんなにも気が差しているのだから、計り知れやしない。自分の気持ち以上に、彼女の気持ちを尊重することなど、本当にできただろうか。彼女の自殺に同意していたから、彼女も喜んでいただろうかとか、彼女がどう思うかなんて、本当は関係ないのだ。私は、これからも間違いなく同意したことを悔やみ、苦しむだろう。それは私のエゴだ。彼女は死を望んだ、それは彼女のエゴであり、まさにエゴとエゴのぶつかり合いだ。

そして第二に、私には彼女の人生を背負ってでも止める覚悟がなかった。背負えるだけの能力が無かったのだ。だから、私は「あなたの人生を私が何とかする」とは言えなかった。し、それができない人間に自殺を止める資格はない、と思っていた(というか未だにそう思っている)。それでも、それでも私は悔やんだ。彼女の自殺を受け入れようとしたこと自体を悔やんだ。自分の無力さゆえに、というのは嘘ではない。自分の懐の狭さにも、器の小ささにも、だ。「私にもっと冗長性があれば」、私は当時もそう言っていた。しかし、「止めるからには相手の人生を背負わなければならない」というのは、本当に正しいのだろうか。あれからずっと考え悩んではいるが、こればかりはどうして答えが出せずにいるのだ。

私にとって、彼女の自殺未遂と父とした会話は、顧みるごとに幾度となく折り重なり、私の考え方を変え続けている。中高生ぐらいになる頃には、自分が人に理解されるということはおそらくないだろう*7、という結論に行き着いた。そして、理解を求めるのは不毛である、ということにも。そもそも他人の理解なんて、本当に必要なのだろうか。本質的には不要だろう。しかし、いつだって理想は理解の内側にある。その考えは今でも変わらない。そして、人同士の相互理解が存在しないのであれば、全てはエゴになるのだと思う。相手のことはわかりようがなく、わかる必要がなく、結果として自分の人に対する態度や人の自分に対する態度というのは、その全てが「わがまま」になり得るのだ。「そうじゃないんだよ」という言葉は通じない。届かない。それでもなお、相手は自分に対してエゴをぶつけてくる。自分もそうすべきなのだ。相手に対する思い遣りなんてものは、相手の心情を察することでも理解することでもない。いかに自分のエゴを押し通し、そのエゴをどう実現させるか、ということだけだ。

今後、誰か他人が私の目の前で自殺しようとしていたら、どうするだろう。見ず知らずの誰か他人だから、と言い訳して放っておくだろうか。それとも、話を聞くだけ聞いて「じゃあ、どうぞ」と掌を返すだろうか。それで、その相手は打ちひしがれるだろうか。そんなことはわからない。わかりっこない。ただ一つ言えるのは、私は子供の頃からこんな状態だから、誰か他人の人生を背負うなんて選択は有り得ない、ということだ。それでも、それでも私は止める。おそらく止める。それは、他の誰でもない、私のために止める。相手がどう感じようと、それをエゴだと言われようと、ましてや父が私に言ったように「その後の人生を背負う」ことができなかろうと、だ。それが無責任な態度であるということを理解した上で、それでも私は止めるだろう。私と相手の間には何の関係がなくても、偶然その場を通り掛かったというだけでも、今日止めて明日相手が死のうと、私にはそれらをどうすることもできない。つまるところ、このエゴはその場凌ぎに過ぎないのだ。その場限りの、私の、精一杯の自由意志を振る舞う。相手の心情を幾らか聞き入れることはできても、正直知ったこっちゃない。ましてや、相手の望んでいる理解なんかできやしないだろう。だがしかし、それでも私は止める。あなたのためではなく、自分のために。どうぞ私を憎んでくれたらいい。私がそこで止めたことを恨んでくれたらいい。それで私が相手に殺されたとしても、それは仕方のないことだ。そういうことになったら本当は困るけれど、止めてしまったのは私のエゴだから、と諦めて、受け容れるだろうから。

では、エゴで自殺を止めるのに「相手の人生を背負う」という覚悟がなくても、せめて「殺される覚悟」は必要なのだろうか。どうだろう、私にはその覚悟もないように感じる。きっと逃げたりすると思う。でも、それでも止める。そんな、中途半端な覚悟で止めると思う。たとえば、医者の人だったらどう答えるだろうか。それも人によるかもしれないが、手の届く範囲で人が自殺したとしたら、医者でなくても一生悔やむだろう。「お前の悔みなんか知らねえよ」と言われるかもしれないが、私だって同じことだ。お前の悩みなんか私は知らないし、知ることもできない。私は、その人が死にたいという気持ちを否定できない。つらいことも、苦しいことも、色々あると思う。私の知っている気持ちとはまた別物だろうし、私には理解することも解決することも救うことも背負うこともできないだろう。死こそが残された唯一の救い、本当にそうかもしれない。それでも死なないでほしい。あなたは自分のために死なないでほしい、この場の、私の気分のためだけに生きてほしい。だから言ってるだろう、これはエゴだって。話ぐらいだったら幾らでも聴ける。それが何の解決にもならないのは知っている。でも、死なないでほしい。私は無力で、そうやってなんとか止めようとすること以外に、何もできることはないのだ。

私は、人の意志を最大限に尊重したい。でもそれは、私のエゴが許容する範囲内での話だ。そうでなければ、私がその人にとって「他人」という立場から関わっている意味がない。それに、私にとって人の自殺というものは、その範囲を大きく逸脱している。だから、私のエゴによって多少の、殺されるくらいの迷惑なら被ってもいい。できれば私を殺すのはやめてほしいけれど、それでもやっぱり、死ぬな、と言って止めるだろう。それが私のエゴだ。それが私なのだ。

一方、「尊厳死」は自殺に捉えられるだろうか。これこそは自由意志や思想理念の枠に収まらない、非常に難しい問題だ。自殺に至る人と尊厳死を選ぶ人との間に、どれだけの差があるだろうか。死ぬ権利の、「権利」という言葉が私はあまり好きではない。「権利」というのは誰かが、およそ大抵は国が保証してはじめて成立するものであり、国家が尊厳死を保証する、などということは私にはよくわからない。助かる見込みがない人を目の前にして、私は首を絞めることができるだろうか。それができないとすれば、それは私の弱さであり、許容範囲の狭さでもある。私にもっと強い精神と肉体があれば。心の余裕と揺るぎない信念さえあれば。

人の死と向き合う、というのは過酷なことだ。誰もが幸福な日々を過ごし、安らかな死を迎えることができればいいのに、と思う。私たちはそう望んで政治を執り行い、医学の発展に勤しみ、誰かの、誰をも、全ての人の生と死が、少しでも不本意から遠ざかるよう、弛まぬ努力をしてきた。献血や募金、寄付だってその一滴の露みたいなものだ。私のエゴでは誰も助けられないかもしれない。何も救えないかもしれない。でもしかし、それ以外にできることはない。それはやらない理由にはならない。私はまだ満足していない。それが無力だと知りながら、やれるだけのことを最大限にやった上で、結局いつまでも、自分の無力さに悔やみ続けるだろう。

 

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Joaquín Sorolla "Italian Girl with Flowers"

*1:「自殺」ではなく。

*2:ここで言う「生存」とは、社会の中で生きていくための諸々の「生存戦略」という意味。

*3:同様に「自殺」ではなく、「自死」。つまり、「自分を殺す」のではなく、「自ら死ぬ」ということ。

*4:当時の私は、本気でそんなことを考えていたのだ。

*5:自死」ではなく、「自殺」。

*6:もちろんそれは叶わないので、これも「悔やんでいる」ことの一つである。

*7:そして自分と同じように、誰か他人も人に理解されることはない、ということも含めて。

「ロマン」という名の苦しみ

今、私たち学生が求めているものがあるとしたら、それはあらゆる不満の解決ではなく、どうしたら今の自分の人生を超えるような「ロマン」を探せるか、ということではないだろうか。私たち人間は得てして易きにつく。誰だってつらいのは嫌だからだ。しかし、易きにつかないことは、別の楽しみを人生にもたらしてくれる。それを「生き甲斐」と人は呼ぶ。

そもそも、易きにつくつもりなら大学で学ぶことは何もない、と私は思う。大学で学ぶのは、それとは異なった楽しみを求めてのことではなかったのか。この社会の中で生存していくことを、より豊かな生活に結び付けていく能力を養うのが大学で学ぶことの本旨だろう。逆に言えば、大学で過ごす学生生活は、「とにかく生きていける」というだけのことで満足してしまわない人間への道を創り出さなければならない。

とにかく生きていけるというだけの生活で、「もういいや」と満足してしまわない野心を創ること、自分の中に衣食住を超えた別の新しい欲望を創ることが第一である。三度の食事を与えられれば、食欲は満足させられてしまう。それに、あと五千円のアルバイト代があればもう少し広い部屋に住めるだろう。しかし、一つの満足がさらに大きな欲望を掻き立てるようなものを自分の内に見出せれば、金銭的な願望は常に満たされなくとも、決して精神的な飢餓感に悩まされることはない。満たされないそのことが却ってその人の生活に張りを与えるが、しかし決して精神的飢餓感を与えないような、そんな願望、欲望を心に抱ければ、その人は人生において絶えず星を眺めることができるだろう。

それはつまり、「学ぶことの喜び」である。だから、「大学で何を学ぶのか」と問われれば、それは「学ぶことの喜びを学ぶこと」だと、私は思う。

文学部の学生が大学に通う数年の間で「文学を学ぶことの喜び」を学んだとしたら、それは学生として立派に「学んだ」ということになるだろう。たとえ読んだ本の数が少なくても、何一つ教室での講義を記憶しなかったとしても、その「学ぶ喜び」を学べたのなら、学生生活は成功なのだ。卒業して何年か経ち、自分の大学の図書館の前を通った時、懐かしさに思わず飛び込んでしまいたくなったとしたら、何を専攻していたにしても、なるほど「立派に学んだ」と言えるだろう。

小学校から中学校、そして高校から大学を経て有名企業へと敷かれたレールに外れまいとして精一杯の、極端に言えば毎日が試験前日の様だった学生がいるとする。そんな人は自分が何を望んでいるのかわからないのではないだろうか。

塾だとか学校だとか、数学だとか英語だとかに追われ追われてきて、ましてや高校や大学に行くだけの、目の前には自分の意志とは関係なしに高校や大学があるだけの生活。自分が自らの意志で次の階段を選び登るために闘ったことは一度もなく、次の階段は自分が選ぶのではなく、いつでも誰かが与えたものだった。

そうした、未だかつてただの一度も自分の意志で動いたことのない人、或いは親の意志で、或いは世間の目だけで動き続けてきた人が抱きやすいのが精神的飢餓感である。「錦を着て憂える人有り、水を飲みて笑う人有り」という言葉があるが、水を飲んで笑っていられる人は、自分の意志を、自分の意欲を、自分の未来をもっている人間である。

そういう明快な自分の意志を欲望を持っている人間は、錦を着なくても幸せになれる。学生時代に旅行の途中ですっかり所持金を使い果たしてしまった人の話*1を聞いたことがあるが、その人は、旅行先のひょんな縁で知り合った弁当屋で働いて日銭を稼いだという。その金で食べたカオマンガイ、そのときのカオマンガイというものが、こんなにも美味しいものなのか、と彼は驚いたのだった。

異国の地で弁当屋で仕事をしてカオマンガイばかり食べていても、とにかくその旅の毎日は幸せだった。曰く、「とにかく旅の中で文章でも書いていられれば、それでもう満ち足りていたのです」らしいが、水を飲んで幸福だったのは、「文章を書けさえすればいい」というはっきりした欲望があったからだろう。

物質的な豊かさは、精神的な豊かさを伴ってはじめて意味を持つものである。例を出すまでもないが、私にも忘れられない思い出がある。私は海外一人旅行が好きだったので、他の学生に比べればよく海外へ足を運んだ。移動には、ほとんど決まってLCCと夜行列車、そして乗り合いバスを利用していた。少ないバイト代の中から生活費と学費を差し引いた分をやり繰りして、やっとの想いで買ったチケットを握り締めながら目的地へと赴く。飛行機の窮屈なシートで、夜行列車の硬い木の椅子で、ボロボロなバンのぎゅうぎゅう詰めな車内で、それでも私が幸せだったのは、「あの場所に行きたい」という明快な欲望があったからである。

かつては、地方から首都圏の大学へ上京するというケースがあると、まず、その人間の周囲には大学生が一人もいないことが多かった。そのため友人が大学に入るからとか、教師が進学を薦めるからという曖昧な理由で大学に進むことは滅多にないものだった。ところが、周りに大学生や大学に進もうという人間が少なくない、むしろ多い現在では、却って学びたいものがあって入学することが少なくなっているのだ。文学を学びたいとか、経済を学びたいと言ってみても、その文学や経済の中で、特に何を学びたいのか、全く掴んでいなければ、先生の方から要求された学習をこなすだけで4年間はあっという間に過ぎ去ってしまう。

先生から求められたテキストの読み込みとかレポート提出のほかに、自分自身の「学習」をもっていなければ、経済を学んだとか政治を学んだということにはならない。学生の時代とは、まずその欲望を具体的に、明確にする時代である。言うなれば、恋に恋する時代から、現実の恋人をもつ時代なのである。

自己実現が第一だとか、個性が大切だとか言ってはみても、主張すべき具体的な内容がなければ絵に描いた餅である。「美」に接したいという漠然とした願望、美しいものなら何でもいいという掴み所のない願望から、次第に「あの景色を観たい」、「あの文化に触れたい」という願望の具体化へ進むことが必要なのだ。

かの坂口安吾は、学校の嫌いな奴は大学へ入っても仕方がないという周囲の意見に大学受検を諦めたものの、小学校の代用教員をしているうちに、学問的に仏教を研究してみたくなって、大学に入ったという。学びたいという気になってからの安吾は素晴らしく、一日4時間睡眠で勉強に励み、梵語パーリ語チベット語、フランス語、ラテン語などに取り組んだという。アテネ・フランセにも入学し、賞を貰うほど勉強したというのだから大したものだ。だが、どうしても学びたいものがあるとき、現代であればそのくらいは安吾ほどでなくてもやれるのかもしれない。

私は、「大学」という名前はもっともっと使われていいように感じている。現在、公民館などで行われている市民大学講座や大学構内での夏期大学講座などの規格に、どんどん「大学」という名前をつけ、「大学」という名前が何か特殊な社会のものでなくなるようにするべきだと思う。それは、意識的に「大学卒」という肩書を役に立たせなくする仕業である。「~文化センター」などというのではなく、学ぶところには皆「読書家大学」「将棋大学」「老人大学」「青少年大学」と名付けて社会教育を行っていけばよいのだ。

それだけのことでも、大学に集まる学生の考え方が少しは変わってくるだろうし、「大学」という肩書もあまり社会生活で役に立たなくなってくるだろう。そうするうちに、何よりも、その人が大学で何を学んだかが問われるようになってくるのではないだろうか。

今の日本は、一見すると自由な社会だろう。しかし、私たちが大学まで追い立てられてきた現実を考えれば、それほど自由ではなかったはずだ。自分が勝手に自分を抑えていたのか、それとも親が自分を上手く操作して自分の欲求に気が付くことから目を逸らさせたのか、或いは社会構造が悪いのか。そのいずれにしても、大学では、そんな精神的な抑圧をはねのけ、自らの野望を持つべきなのだ。そういう意味では、一生のうちでこれほど恵まれた時代は二度と訪れないだろうという予感はしている。しているからこそ、この残り少ない「学生でいられる時代」をどう充実させていくべきなのか、悩んでいるのだ。

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Vincent Willem van Gogh "a crab on its back"

*1:何を隠そう、私自身の事である。

『ハンナ・アーレント』考

<映画のあらすじ>

ユダヤ人であったことから、ナチス政権下のドイツでは激しい迫害を受けていた政治哲学者のハンナ・アーレント。彼女は、第二次世界大戦中にはフランスやアメリカへの亡命生活を余儀なくされていたが、戦争が終わってからは、アメリカで再婚相手のハインリヒと穏やかな日々を過ごし、ニューヨーク大学で教鞭を執っていた。そんな中、アーレントはアルゼンチンに潜伏していたナチスの元高官アドルフ・アイヒマンが、イスラエルの諜報員モサドによって拉致され、イスラエルで彼の裁判が行われるというニュースを目にする。彼女は『ニューヨーカー』誌の特派員として、裁判を傍聴することを志願するのだが...。

 

 

<注目すべきポイント>

・彼女はアイヒマンについて何を感じ取ったのか?
・『ニューヨーカー』誌に寄稿したアイヒマン裁判の文章をめぐって、なぜ彼女は同志であるユダヤ人からも非難を浴びることになったのか?

 

 

 

「戦争責任の問題について」

 

1.ナチス・ドイツの戦争責任

ナチス・ドイツの行った最大の戦争犯罪を挙げるとするならば、間違いなくそれは、ユダヤ人に対するホロコースト*1であろう。ナチス・ドイツは、戦争が終わりに近づくと、強制収容所の証拠を破棄し、多くの施設を破壊してしまったので、実はその悲劇の全体像は未だに把握できていない。だがそれでも、戦争前に生活していたドイツ国内のユダヤ人の数などから、およそ580万人近いユダヤ人が、第二次世界大戦時においてナチス・ドイツの手により殺害されたと考えられている。

そもそも「戦争責任」という言葉が国際政治において使用されるようになったのは第一次世界大戦後のことだが、実は第二次世界大戦の最中に、当時の連合国は比較的早い段階からナチス・ドイツの行ったことを戦争犯罪として戦争終結後に追求しようと考えていた。それでも当初は連合国もホロコ-ストの惨状をきちんと把握できていないこともあり、伝え聞いていたユダヤ人問題については、あくまでも自国民に対する犯罪として新たな政治体制によって裁かれるべき問題と捉えられており、連合国はこのユダヤ人問題を戦争犯罪に含めていなかった。それでも虐殺を免れたユダヤ人たちの声や破壊されずに残された強制収容所の存在などから、諸外国にもホロコーストの実態が明らかになるにつれてナチス・ドイツの行ったユダヤ人の大量虐殺の問題もナチス・ドイツ戦争犯罪を裁く国際軍事裁判「ニュルンベルク裁判」で議論されることになった。

この1945年からその翌年にかけて開かれた「ニュルンベルク裁判」の開廷時点で、ナチスの総統であるアドルフ・ヒトラーだけでなく、最高幹部だった宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスやSS全国長官のハインリヒ・ヒムラーも既に自殺していた。それでも「ニュルンベルク裁判」では、24名が戦犯の被告としてリストアップされ、そして最終的には、審理中に自殺又は除名された2名を除くと、12名に死刑判決が、3名に終身刑が下された。

この「ニュルンベルク裁判」については、調査官・書記・通訳など多くの亡命ユダヤ人が加わっていたため、決して中立的とは言えない異様な雰囲気で行われた点や、連合国の戦争犯罪*2が不問にされた点などについては、連合国側で裁判に関わった人の中にも批判的に考える者は少なくなかった。

だが、自国民に対する犯罪や宗教や民族に対する犯罪を「人道に反する罪」という新たな概念で戦争犯罪と位置付けたことで、ナチス・ドイツの行ったユダヤ人に対する大量虐殺も戦争犯罪として扱われたことは、評価すべきだろう。また、この「ニュルンベルク裁判」が一つのモデルとなって、太平洋戦争における日本の戦争犯罪を裁いた「極東国際軍事裁判*3」も行われたのであった。

ただ今回は、今なお議論の多い「東京裁判」や日本の戦争犯罪について掘り下げるのではなく、もう少し大きな視点で、「私たちの戦争責任」について考えることにしたい。第二次世界大戦終結から既に70年以上が経過し、果たしていつまで「戦後」は続くのだろうか。既に「戦争を知らない世代」が日本人の大半を占めている状況の中で、「戦後」や「戦争責任」というものは、以前と比べてその言葉の内実や重みは、確実に変化してきている。その点も踏まえて、この「戦争責任」というものについて考えたい。

 

2.カール・ヤスバースの指摘するドイツ国民の戦争の罪

第二次世界大戦後のドイツ国民に対して向けられた批判は、それは凄まじいものであった。だが、度重なる空爆だけでなく地上戦も行われていたため、その国土は焦土と化し、国民全体が困窮している中で、誰も過去のことなど振り返りたくなかったし、また振り返る余裕もなかった。

それでも戦後のドイツ人たちも、その困窮の状況を強いられる中で、亡命したドイツ系ユダヤ人たちからも弾劾されるとなれば黙ってはいなかった。一体ナチス・ドイツの起こした戦争犯罪は、ドイツ国民一人ひとりにも罪はあるのだろうか。もしあるとすれば、それはどのような罪なのだろうか。そのような難問について正面から論じたのが、哲学者であり精神科医でもあったカール・ヤスバース(1883-1969)だった。

ヤスバースは、『全体主義の起源』(1951年)を記した政治哲学者ハンナ・アーレント(1906-1975)の直属の師に当たる人物で、20世紀ドイツを代表する哲学者の一人である。また、彼は同時代の哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976)とは年齢が近いこともあって、ある時期までは互いの著作や研究を評価し合い、頻繁に交流も行っていた。しかし、ハイデガーフライブルク大学の総長になって、ナチスヒトラーを賛美する発言をし始めたことから、ハイデガーとの関係は疎遠になっていった。というのも、ヤスバースの妻がユダヤ人であったからだ。

しかもヤスバースは、1933年にナチスが第一党となりユダヤ人への迫害が厳しくなる中で、ナチスからも強制的にユダヤ人である妻と離婚することを迫られた。もちろん彼は、そのようなナチスの圧力に反対したが、そのことによって大学の公職を奪われただけでなく、最終的には夫婦ともに強制収容所に送られる寸前の事態まで至ったのだが、そのギリギリの状況の時に連合国が戦闘に勝利したことで、最悪の事態は免れることができた。

では、ヤスバースはドイツ国民の戦争の罪についてどのように説明しているのか。彼は、それについて考察した『われわれの戦争責任について』の中で、戦争の罪を4つに区分している。

 

〈ヤスバースが示したドイツ国民の4つの罪〉

(1)刑事的な罪
これは、明確に規定された法律に違反する客観的に立証可能な行為、つまり犯罪を指しており、この罪を裁くのは裁判所である。実際に国際法に則って行われた種々の戦争犯罪をめぐる「ニュルンベルク裁判」が念頭に置かれている。そしてその罪の結果は「刑罰」という形で科せられる。

(2)政治的な罪
政治的な罪とは言っても、この罪の対象となるのは、政治家の行為だけではない。国民の行為もそこに含まれる。ヒトラー政権といえども選挙の結果として成立し得たのであり、ヒトラー政権を生み出し支持した罪がドイツ国民にないとは決して言えないからだ。それゆえヤスバースは、ドイツ国民にも政治的な責任は問われると指摘している。この罪の結果は「責任」や「賠償」である。

(3)道徳的な罪
これは、政治的及び軍事的な行為を含めて、個人がなすあらゆる行為について、刑事的な罪や政治的な罪とは別に、改めて問われる罪である。他人の苦難に見て見ぬふりをするというのはナチス体制下ではありふれた光景だった。もしそのように見て見ぬふりをしないで抵抗を示したならば、自分の地位や職を失ったり、或いは命が危うくなったりしたかもしれない。けれども、見て見ぬ振りが自分の意思の選択による行為である限り、やはり道徳的な責任を問われる余地はある。この罪を裁くのは自己の良心であるが、仲間との交流がその裁きの役割を果たすこともある。そして、裁きの結果としてもたらされるのは心の「悔い改め」である。

(4)形而上的な罪
たとえ自分が死を賭して連行されていくユダヤ人を庇ったとしても、無駄な抵抗にしかならなかったかもしれない。それでもそこで連行された人々が死んで、自分がまだ生きているという事実、これは自分にとって罪であると感じられる。たとえそれが見ず知らずの他人であっても、その他人が殺害され自分が生き延びていることの不条理の感覚が「形而上的な罪」である。この罪は、命を落としたどんな人とも決して無縁ではないこと、人間相互の間に根源的な連帯の関係が存在することを露わにする。そのような意味では、誰であれ、この世の不法や不正義に対して共同の責任を負っているのである。この「形而上的な罪」 を裁くことができるのは神のみである。そして、この罪の結果として人間は自分の卑小さを思い知らされ、「神の御前での人間の自覚に変化が生じる」とされている。

ヤスバースは、以上の4つに戦争の罪を区分することで、ドイツ国民としての戦争の罪について考えることを促すだけでなく、連合国に対しても、彼らからドイツ国民が闇雲に受ける批判に返答するという狙いもあった。そしてドイツ国民の戦争の罪は、戦争犯罪を犯していなければ「刑事的な罪」はないが、それでも「政治的な罪」「道徳的な罪」「形而上的な罪」は免れない、そうヤスバースは訴えたのであった。

ただ、この4つの罪を念頭に置いて、過去の日本の犯した戦争の罪を考えてみたとき、現代に生きる私たちに該当する罪はどれだろうか。或いは、あるのかないのかも含めて考えてみたい。

 

3.日本の戦争責任について
3-1.「東京裁判

日本は1951年の「サンフランシスコ講和条約」の締結を以て、連合国との戦争状態*4終結し、国際社会への復帰を果たした*5

その「サンフランシスコ講和条約」の第11条では、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が科した刑を執行するものとする」と記されており、この第11条を受けて、日本の国際社会への復帰は、「東京裁判」の諸判決を全て受諾すること、そして「東京裁判」の内容について今後一切蒸し返さないことが条件になっている、と解釈されてきた。

この「東京裁判」では、先の「ニュルンベルク裁判」を受けて、「侵略戦争又は国際条約・協定・保障に違反する戦争の計画・準備・開始及び推敲、もしくはこれらの行為を達成するための共同計画や謀議の参画した行為」などに関わる「平和に対する罪*6」、捕虜の虐待や民間人から強奪などの「通常の戦争犯罪*7」、そして「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、追放その他の非人道的行為」に関する「人道に対する罪*8」の3つの容疑で裁判が行われた。1946年から1948年まで開かれた「東京裁判」では、「平和に対する罪」が被告人23名、「通常の戦争犯罪」が被告人7名で、「人道に対する罪」の被告人は0名だった。そして、このうち25名が有罪判決を受けて、7名が死刑となった。

 

3-2.家永の『戦争責任』

この「東京裁判」の過程については、「ニュルンベルク裁判」と同様に、その裁判のプロセスに関しても様々な批判がある。とはいえ、これが国際社会に復帰する一つの禊*9 の役割を果たしたことも事実だ。

けれどもその一方で、この「東京裁判」の存在が、日本社会で戦争責任を問うという状況を失わせることにもなってしまった。確かに、戦後知識人たちの何人かは、この日本の戦争責任問題を主題的に取り上げてはいる。たとえば、政治哲学者の丸山真男(1914-1966)は、戦後に流布していた「一億総懺悔論*10」を批判して、「なぜ日本は戦争に突き進んでいったのか」という問題意識のもと、日本の軍国主義及びファシズムについて多くの研究を残した。彼は、「責任主体足り得る個人の不在」という日本の国家権力の特異性を暴き、そこから「主体的な個人の確立」と「個人の自律」こそが戦後日本の課題であると指摘していた。

また、丸山よりも更に踏み込んだ形で戦争責任を論じた著作としては、家永三郎の『戦争責任』(1985年)が挙げられる。家永は、この著作における戦争責任の戦争として「15年戦争」という言葉を使用しているが、これは、満州事変の発端となった1931年の柳条湖事件から日中戦争を経て、アメリカ・イギリス・オランダへの宣戦布告による太平洋戦争勃発から1945年に終戦を迎えるまでの15年間を指している。

この著作が発表された1985年はちょうど戦後40年で、当時日本はバブル経済に突入していく最中であったため、太平洋戦争も既に「過去のこと」と捉えられはじめていた頃であった。家永が日本の「戦争責任」を正面から論じることが出来たのは、戦争と少し距離を置いて捉えるようになった時代の空気と無関係ではなかっただろう。とはいえ、ここからさらに30年以上が経過した現在から見ると、家永のこの著作には、当時の日本にまだ戦争の傷跡が強く残っていることを感じさせる。

家永のこの著作では、私たちが「戦争責任」ということで真っ先に思い浮かぶような当該国への戦争責任・戦後補償の問題ももちろん言及されているし、日本国民を加害者とする観点での考察もなされているが、全体的に紙幅が割かれているのは、日本国民を被害者とする戦争責任の問題である。というのも当時戦後40年とは言え、まだまだ戦争被害者と思われる人たちは沢山いて、そのような人たちは、その怒りの矛先をどこへ向けたらいいか、思い悩んでいたからだ。たとえば、原爆被災者の当時の朝日新聞の見出しでは、「母の胎内で負わされた原爆症の重荷力尽き、娘さん自殺 苦しい19年を生きた末に」(1965年1月19日)、「被爆主婦が焼身自殺」(1978年9月9日)、「被爆主婦、顔のケロイド苦に自殺」(1979年5月14日)などが散見されるが、このように、戦争を生き延びて戦後数十年も経過するにも関わらず、被爆の重い後遺症などを理由に自殺する人が当時はまだ少なくなかったのである。

また家永は、戦後の混乱の中で中国本土に取り残された中国残留孤児の問題にも言及している。1972年に日中間の国交が回復し、帰国事業も進められていたが、当時の政府は帰国事業に力こそ入れていても、日本語教育や就労指導については政策も手薄だったため、家族との再会を果たした後に、再び中国に帰る人たちが後を絶たなかった。

そして、家永が言及している被害者としての日本国民についての興味深い論点が、民間人の戦傷者問題である。軍人軍属の負傷者は、国家の手厚い支援*11が受けられるにもかかわらず、疎開先に向かう途中で空襲に遭って両足を切断しているようなケースでは、全くそのことに関する保証が受けられないでいたのだ。

このように、戦争被害者の日本国民に対する政府の戦争帰任を問う意味で書かれた家永の『戦争責任』は、その中で、アジア太平洋戦争の「戦争責任」として、「国家としての日本」、「加害者としての日本」、「連合国」の3つの戦争責任も明らかにしている。

そして、その際負うべき責任の範囲について細かく分類している。たとえば、国家としての日本の責任に関しては、「中国に対する責任」「マライ半島諸民族に対する責任」「フィリピンに対する責任」「グアム島民に対する責任」「インドネシアに対する責任」「ビルマに対する責任」「ベトナムに対する責任」「朝鮮民族に対する責任」「台湾島民に対する責任」「旧委任統治領太平洋諸島住民に対する責任」「(ソ連を除く)アメリカなど連合国に対する責任」「中立国に対する責任」「ソ連に対する責任」に言及し、それぞれ相手国別に詳細な責任を論じている。

また、日本の負うべき戦争責任は「日本国民」一人ひとりにもあると指摘し、日本国民も、アジア諸国に対して責任を免れ得ないとしている。たとえば、戦争が始まる前に効果的な反戦運動が構築できなかったのも「日本国民の戦争責任」としている。加えて、アメリカ軍による原爆投下や東京大空襲の責任、ソ連が日ソ中立条約を破って参戦したことの責任も明らかにしている。

このように家永は「戦争責任」を全面的に追及しているのであり、さらに日本国民に連続する戦後世代にも、つまり、戦争中は生まれてもいなかった私たちにも、戦争責任があるとしている。それは、過去の戦争の事実についての政治的責任であるという。

日本語で「責任」とは、「その立場上負わなければならない任務や義務*12」であるが、しばしば刑事事件で「責任能力」の有無が問われるように、「責任」とは、その義務や責務を負う能力のある主体が存在していて、はじめて問題となり得る。

もちろん、戦争責任の場合は、どの戦争犯罪やどの事柄を問題にするかによって、問われる主体も変わってくるだろう。とはいえ家永は、現代を生きる私たちにも「過去の戦争の事実についての政治的責任」という形で戦争責任があると指摘していたが、現代の私たちは、本当に過去の戦争責任の主体なのだろうか。もちろん、この疑問が軽々しいものにしないためには、過去の日本が起こした戦争により甚大な被害を被ったアジア諸国の人たちを前にしても発せられるような答えでなければならないが、改めて私たちは、過去の戦争責任の主体なのだろうか。

 

 

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Pablo Picasso "Guernica"

 

<参考文献>

われわれの戦争責任について (ちくま学芸文庫)

われわれの戦争責任について (ちくま学芸文庫)

 

カール・ヤスバース『われわれの戦争責任について』ちくま文芸文庫

ハンナ・アーレントエルサレムアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』みすず書房

〔新装版〕 現代政治の思想と行動

〔新装版〕 現代政治の思想と行動

 

丸山真男『現代政治の思想と行動』未来社

記憶と忘却の政治学―同化政策・戦争責任・集合的記憶 (明石ライブラリー)

記憶と忘却の政治学―同化政策・戦争責任・集合的記憶 (明石ライブラリー)

 

石田雄『記憶と忘却の政治学明石書店

戦争責任 (岩波現代文庫―社会)

戦争責任 (岩波現代文庫―社会)

 

家永三郎『戦争責任』岩波文庫

日本の戦争:歴史認識と戦争責任

日本の戦争:歴史認識と戦争責任

 

山田朗『日本の戦争 歴史認識と戦争責任』新日本出版社

*1:大量虐殺

*2:例えば、ドイツ本国に投下されたと考えられている150万トンの爆弾は、日本本土の爆撃の10倍の量に相当するが、これにより30万人の民間人が殺害されたことや、特に占領下でソ連が行ったとされる強姦・暴行・殺人など

*3:東京裁判

*4:占領状態

*5:とは言え、そこには沖縄をはじめとしていくつかの地域が除外されていたことから、本当の意味で日本の占領状態の終結ではない。

*6:A級犯罪

*7:B級犯罪

*8:C級犯罪

*9:或いは、「政(まつりごと)」

*10:「一億総懺悔論」は、終戦後の最初の総理大臣として敗戦処理の任務を請け負った東久邇宮稔彦が、昭和天皇の問責を阻止するために唱えられたとも伝えられている。

*11:手厚い支援が所謂「福祉年金」であり、これが障害者福祉など今日における「福祉」の源流である。

*12:大辞泉より。