完甘美の空腹

自分用

表象について

個人的に専門外の内容で今最も熱いテーマが「自他はどう表象されるか」ということだ。私たちは実に多くの表現手法を持っているが、それらは果たして自らを正しく表しているのだろうか、とかそこら辺に纏わること。

実を言えば、「アイデンティティ」について書いたり、「言葉」について書いたりするのもこれに拠るところが大きい。「自分とは何者か」「他人とは何者か」という問いの答えが気になって気になって仕方がない。しかし、これほど困難な問いはない。「死後の世界はあるのか」くらいに難しい問いだと個人的には思う。

自らを表現する方法は2つに大別されると考えている。一つは「言葉」を用いる方法があり、もう一つは「芸術」をメディアとする方法がある。それぞれの表象の手法と問題についてそれぞれ備忘録的に考察していきたい。恐らく以前の記事を読んでいないと理解不能だろうし、以前のそれを読んでいても意味不明だろうがそこはご了承。なぜならこのブログは私のブログであって(主に)私のためのものなのだから。

「言葉」を用いた自己表現に関しては以前真剣に書いたので繰り返しにならないように切り口を変える。言語については大別して2つタイプがあり、一つは自己の理解のために表現される「私的言語」であり、もう一つはコミュニケーションの手法として話される「公的言語」がある。「理解は言語的であるか」という問いを自分で立てて行き詰まっている真っ最中なので全く筆が進まないが、この2つのタイプに立脚する限り、「自己表現」は非常に曖昧な立ち位置にあるということが分かる。すなわち、自己を表現することは、「自己」について自己理解を促すという意味で至極私的な言語で語られるものであり、他者に対して自己を表象させるという側面から見れば公的性に志向した言語で語られるということである。

先ほど「理解は言語的であるか」という問いを発したが、これが「言葉」を用いた自己表現における最大の問題であるようにも思う。自己理解のために、或いは自己表現のために発話された「言語」は、それ自体-対-対応で表し得ないはずの自己を「表現」したことになる。言い方を変えれば、コミュニケーションの手段としての「言語」は公的性を有するがゆえに、ある程度普遍的であり、自己表現で表象された「自己」は普遍化され自己という特殊性を喪失することになる。真に自己の今と言語-対-対応に志向した私的言語で為された自己表現は、おそらく我々にとって、あるいは未来にあってそれを見返す自己にとっては理解不能であるから、原理的に自己表現は言語を以っては行い得ないことになる。おそらく具体的な「理解」の過程は言語的であろうが、様式はそうではないのだろう。

論があまりにも霧散しているので具体例を用いて整理する。そうでないと後から自分で読んでもわからない文章になってしまう。

例えば、私が今「嬉しい」という単語で表現されるに近い感情、「a」という感情を有していたとする。「私は今嬉しい気持ちです」と今の自己を表現するとそれは既に、普遍性を有した「嬉しい」という言語観念の中に自己の現在の感情、「a」を押し込めてしまっていることになるからそれは表現し得たと言い切ることはできないだろう。或いは「私は今aという気持ちです」と表現したらどうだろうか。おそらく画面の向こうのあなたにも、未来の自分も理解できない表現に成り下がってしまうだろう。あまりいい例えではないが、言語は「自己」を正しく表象し得ないということはお分かりいただけるかと思う。

言語表現の可能性を見るとすれば、逆にこの普遍性と特殊性の相違にあるとも言える。曖昧な「語感」の綾を辿り、その網目の上に自己を定立させてしまう表現がある。言葉が直接的に示す意味だけではなく、言葉の選択や語順で包括的に今の自己を包み込み、特殊な「自分」の感情を他者や自分自身に想起させる手法とも言える。私は以前一人で夢想している時、これこそ「文学」的表現であると一人合点していたのだが、やはり自己表現というものは芸術をメディアとしなければならないのかもしれないと思うと絶望する。

さて、続こう。次は「芸術」をメディアとする手段である。先ほどの文学もそうだが、「工芸」「美術」「音楽」等を意思として自己を表現することもなるほど可能である。美術であれば、表現する像の示すもの、色合い、構図、像そのものなどから総合的に自己の思考を他者に想起させることが可能であるし、音楽であれば、曲選、歌詞、声調・曲調などから自己を想起させることが可能である。いずれにせよ、直接的に「自己」を表現するのではなく、芸術というメディア(媒体)を通じて「自己」を他者に想起させる手法である。

この手法には2つの問題点がある。一つは万人には行い得ないという点である。メディアを用いて自己を想起せしむる所業は、想起の方向性について知悉するとともに、適切なメディアを準備し得る高いセンスが必要になる。次に、直接的ではないということからくる自己表現の限界である。相手が想起した「自己像」が正しく自己とイコールであることはあり得ないし、場合によっては素っ頓狂な理解もされかねない。つまり、自己表現の手法として重要であるが、不完全であることに変わりはないのだ。

 

どうやら自己表現は無理という結論に達してしまった。私は自己承認欲求の権化であるから、自己をどう他者に正しく理解させるか躍起になっているのだがその努力は全て無駄らしい。僅かに可能性があるにしてもそれにはあまりにも偉大なセンスが必要であり、生憎そんなものは持ち合わせていない。何とも鬱々とした考察結果だがこれで終えたいと思う。

 

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 1/16 6:30

自尊心

私たちは、人に認められるために生きている訳ではない。幸か不幸か、この世の中に生まれてきた以上、誰に認められようと認められまいと、まっすぐな精神をもって自分なりの生涯をなんとか全うすることこそが、「生きる」ということだと思う。

しかし、私はこんな、腑に落ちない、生温い答えには満足できやしない。「まっすぐな精神」って、何?「全うする」って、どういうこと?こんな、面白いのか面白くないのかもわからないような地味でフワッとした答えには納得できない。納得したくない。何よりそんな答えは魅力的でない。

夢を追い続けること、あるいは自己実現のため、幸せになるため、成功するために生きるのが人生ではないのか。誰もが羨むような、輝かしく楽しい、瑞々しく充実した生活こそ真の人生ではないか、と言いたい。

単純に望まれているのは、「手応えのある」「価値ある」人生だろう。「価値ある人生」とは、それが普遍であれ特別であれ、多くの人が認め、多くの人が欲することによって成立する。どういう訳か、世の中の大半の人が結婚して家庭を築いているため、家族は「人並み」という「幸せ」の象徴となっている。これが普遍性だ。数億円の収入があり、家族ともども人もうらやむような裕福で豪華な生活を手に入れると、「人並み」の家族の「幸せ」を凌駕することができる。これが特異性だ。

人が疎らにしかいない寂れた観光地に行くと、時代や世間から外れたような、貧乏たらしくも惨めな気持ちになり、また京都やディズニーランドのように混雑した人気のある場所に行くと、自分もその一員なのに「なんでこんなに貧乏人が殺到しているのだ」と思いつつも、そこに自分も参加しているという安心を感じて華やいだ気分になるのも、おそらく同じことだろう。なるほど、より多くの人が関心を持ち、評価し、認め、欲しているものは「価値」があるだ。

私たちは、人に認められるために生きている訳ではない。当然のことだ。人の視線の中で生きるなんて馬鹿げている。しかし、この世の中に生まれたときから、あらゆる評価に晒されていることもまた確かな事実だ。それに、人から褒められると、これが何故だかどうして嬉しい。自分の「価値」を認められた、と思う。逆に、人に貶されると、これまたどうして不快だ。自分の「価値」を否定された、と思う。

私たちは「評価」から逃れることはできない。感覚や理性は差異を認識し評価をするからだ。人やものを見るとき、私たちはその好悪美醜といった差異を認識し評価している。つまり、私たちは評価する存在であると同時に、評価される存在なのだ。

証明欲求と承認欲求は自然感情としての「快さ」を求めるため、ほとんど本能的といっていいだろう。だから、敢えて非難する必要はない。ところが、この本能以上にもっと「快さ」を過剰に求めるあまり、「不快」を他人に、その責任をも全て他人に、となると、人間はその途端一気に醜悪なものになってしまう。

人間が「快さ」を求め「不快」を避けるのは自然だが、過剰に証明したがり、過剰に認められたがることは本末転倒だろう。「快さ」を求めすぎて、そのために他人を利用したり、他人の評価に一喜一憂して自縄自縛に陥ったりしかねないからだ。それは「快さ」の独り善がりであり、また「不快」を撒き散らしていることに過ぎない。他人の上に立たないと気が済まない「自分」になってしまう。

人から何と言われようと、どう思われようと、「自分はこれでいい」「やるだけのことはやった」と自分で自分を認める適切で適度な自己承認が必要だと思う。「自分」を証明し、「自分」を認めてもらいたいなど、きっと意味のあることではない。自分の「何」を証明し、「何」が承認されるのか、だ。それはおそらく、「いい仕事」や「いい関係」への意志だと思う。そして証明や承認は求めるものではなく、あくまでも結果としてもたらされるのだ。

もちろん、それでも自己承認は揺らぐ。揺らがない自己承認なんてない。だからこそ、何度でも強く打ち立てなければならない。人から認められるのは嬉しいことだけど、それよりも重要なのは「自分はこの仕事でいい」「この人がいちばん」「この生き方でいい」という自分だけの意味を自分自身で認めてあげること。それは自分に執着するためではない。他人に振り回されないために、だ。そして、できることなら、いつかこの自己承認をも越えたい、と思う。

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Edvard Munch “The Sun”

凡庸

信仰は、精神の外部に留って人間性の大事な部分を外部の影響から防ぐべく、精神を厚い壁で覆って硬直させる。現代社会ではこういう有様が一般化し、日常化している。

信仰は、新しく生き生きとした確信が入り込む余地を許さないことでその力を示す。しかし、信仰そのものは頭や心に何も齎さない。信仰は、頭や心が空っぽのままである様に見張りを努めることにすぎない。

現代人が私に問いかけるのは、凡庸とは何たるかということだ。すなわち、自分の地位には何が相応しいのか、ということ。自分と同じ身分、同じ収入の人々は、何をするのが普通なのだろうか。或いはもっと下品な問いになるが、自分よりも身分が高く、収入も多い人々は、何をするのが普通なのだろうか。私がここで言いたいのは、現代人は自分の好みよりも世間の慣習を大事にするとかいうことではない。現代人は、世間の慣習になっているもの以外には好みの対象が思い浮かばなくなっているのではないのか、と問い質したい。

そこには何があるというのだ。

何をそんなに大事だというのだ。

何を以て大事だと判断しているのだ。

そこには何があるというのだ。

そこには何があるというのだ、