完甘美の空腹

relish the beauty, sweet, perfect

桜の花が咲いて、散った。また春が来た。最近の陽気は「春」を一足飛びに越えてしまったようだけれど、「出会いと別れの季節」は変わらず今年もやってきた。

「桜」というのは象徴的な花だ。あれを見掛けると感傷的になるように、私たちは形作られてきたらしい。青空に映える桜のもとに老若男女が集い、各々の想いを散りゆく花に込める。桜は散るから美しい。小さい花びらが空を、川をしばし埋め、幻想的な眺めを彩る。場面の転換を私たちに示すように。

桜はしばしば「希望」に満ちた春を表象する。一方、その散る様に「寂しさ」が重ねられる。希望の花が先で、散る寂しさが後だ。しかし、三月から四月にかけての、私たちに起きる変化を見ると、順序が逆であるように見える。別れが三月、出会いが四月。きっと、これは「見える」だけなのだろう。

出会いの後には別れが来る。別れの後には出会いが来る。別れの瞬間の、得も言われぬ感情はある種の美しさを伴う。それは花の希望によって脚色される。またもう一周回ったのだ、という儚さが私たちを包む。「出会い」の時期から少しして花が散る。やってくるのは「寂しさ」だ。出会いの後、おそらく本当の「寂しさ」が私たちのなかにやってくる。そして寂しさの中に若葉が芽生える。また一周の始まりである。若葉もやがて育ち、散り、蕾をつけ、花になる。

こぼれんばかりの桜の前に立つ。毎年それが咲くと、見に行きたくなる。そして思い出す。散りゆく希望を、散るにもかかわらず今年も咲いたそれを。ともかく、また一周回ったのだ。そう言い聞かせる間もなく、桜はいってしまった。今年もまた、勝手に春を過ぎていく。

 

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kotaro『桜』

私のヒーロー

 

イチロー選手が引退した。野球選手としての実績については、これ以上付け加えることはあるまい。私の小さい時から今に至るまで、間違いなく彼はヒーローだった。

私は一時期だけ少年野球をやっていた。上手くはなかったけれど、当時は真剣にやっていたつもりだった。様々つらいこともあったし、何度やめようと思ったか分からないが、結局はやむを得ない事情でチームを去ることとなった。

私の一番得意なポジションはサードだった。初めてサードを守って以降、一貫してそうだった。一方の打撃は苦手極まりなく、辞める直前は全く打てないサードというお荷物な事態に陥っていた記憶がある。ともかく、そんな私にとってイチローはヒーローだった。当時はロジャー・クレメンスやブラディミール・ゲレーロといったスーパースターが野球界を席巻していたが、やはり私のヒーローはイチローだった。

“Hero”という語はギリシャ語の“heros”に由来し、「半神」或いは「保護者・守護者」の意が原義であるという。古今東西、あらゆる“物語”にはHeroが登場し、時に私たちを導き、悲哀へと誘い、或いは私たちの勇気を奮い起こさせた。Heroは常に、半分神のような存在であり、私たちの存在の憧れであり、その意味で私たちの自己を守ってくれていた。

「物語」という語は、実に様々な次元を内包する。小説はもちろん、歴史や私たちの人生、時代もおそらくこれに含まれる。誰かによって「語られる」対象、或いは「語られた」物はすべて物語と呼んでもいいかもしれない。ともかく、全ての物語の相にあってヒーローが存在する。ヒーローなき物語を私は想像できない。ヒーローの引退という自体は「私」という物語に重篤な欠陥を生み出す。

アイデンティティ・クライシス」なんていう長いカタカナ語がある。アイデンティティ-端的に言えば自己同一性-を失うということは案外こういうことからも始まるのかもしれない。私の同一性、すなわち過去から今、そして未来に至るまでの私に関する筋書の一端が欠けるという自体をこの語で表すならば、今の状況はまさにこれである。

無論、物語のヒーローは一人ではない。私にも多くのヒーローがいて、私の物語を成り立たせてくれていた。男なんて所詮子供から進化しないから、いつの時代も私の未来を支えるのは、私のヒーローへの思慕である。

この意味でイチローは、私にとっては幼心を思い出させてくれる“過去”のヒーローであった。小さい頃、自己の限界を知らず、自分はヒーローになるんだと純粋に思いなしていたあの頃、私はイチローになりたくて日々練習していた。人間というのは、成長と共に明日への諦めを身に付けるものである。幼心に在った「今日の私」よりも「明日の私」の方が進歩していて、十年後の自分はヒーローになるんだという純粋な思い込みを持ち続けることは残念ながら私たちの発達段階が許さない。イチローは相変わらず私にとってヒーローだったが、いつの間にか思慕の対象としてのヒーローではなくなっていった。

今は既に引退し、私の幼心を思い出させてくれる、私にとってのヒーローに水泳の北島康介がいる。今の彼がどうであろうと、彼は未だに私のヒーローであり続けるし、小さい時と同じ純粋さで彼の活躍を祈ることができる。

私にとって、イチロー北島康介のハイライトは2006、2004年頃のそれである。具体的にどの試合がとか、どの泳ぎがとか言うのではなく、あの頃の活躍の姿こそが私にとっての偶像である。レオン3世をして聖像禁止令を発布せしめたのも分かるくらい、当時の彼らを象った偶像は私にとって大きな存在を依然占める。

偶像を全ての依枝とすべきではないだろう。しかし、それは宝物としてとっておくに値する「子供」の残り香である。家中に残る小さい時の卒業アルバムや写真と同様、私の心のなかには彼らの偶像が飾られていて、私はたまにそれを見返して、一人「子供」になることができるのだ。やはり、物語にヒーローは欠かせない。

 

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Eugène Delacroix "La liberté guidant le peuple"

 

 

〈関連〉

「生きづらさ」という障害

何故、私たちは「生きづらい」のだろうか。
単純に、「生存」に困難を抱えているのであれば、これは「障害」や「疾患」として扱った方が適切だ。何らかの外的要因によって命の危機に瀕しているというならば、病院が対処するだろうし、生きるのに必要な労働や食料が足りないというのならば、社会保障が対処すべき問題である。私たちが、特に私の周りの大学生が「生きづらさ」と呼んでいるものは、どうやらこの類ではないらしい。

ここでは「生きる」ということを、生存と実存の二つに分けて考える。そして、生存の障害と実存の障害について掘り下げる。今日における「生きづらさ」という言葉が表しているものはほとんど「実存の障害」であり、とりわけ大学生の「生きづらさ」を分析する上で私たちが考えるべきは、実存と生存の対立である。ここに於いて「生きづらさ」というものを、二つの「生きる」が対立して生じる体験として捉えてみたい。

 

実存とは何か。ハイデガーは人間を「己の存在において、この存在そのものが問題であるような存在」であるとした。そして、このような存在の仕方を「実存」と呼び、「この存在そのものが問題である」とは「『私という存在とはどのようなものであるのか』が問題になる」という意味であるとした。「私とは何か」「私という存在は何なのか」という解釈が「私」という個にとって問題になるような在り方、それこそがハイデガーの説く「実存」である。

これは、サルトルの主体/客体という概念を使うとわかりやすい*1。主体とは、周囲の物事や自分自身を自ら解釈する在り方である。対して客体とは、自分から他者や自分を解釈することはせず、他人から解釈されることで存在できるような在り方である。基本的に物体は客体であり、人間は主体である。

客体の例としてハサミを取り上げよう。ハサミには「紙を切る道具が必要だ」というハサミ製作者の目的が先にあって、その目的に沿うようハサミという実物が作られる。ハサミには、作り手によって生まれた時点で既に「ハサミとは、紙を切るための道具である」という風に解釈が与えられている。私たちがハサミを見ると、それは「紙を切る」という可能性と結びついて理解される。「ハサミは紙を切るもの」という図式の中で理解されるのであり、未来のある可能性の中で既に世界との関わり方を定められている。故にハサミはそのような存在の在り方をしているのである。

一方で、主体である私たち人間は何らかの目的をもって世界に生まれてくる訳ではない。たとえ親から「お前はうちの跡継ぎになるために生まれてきたのだ」と言われたところで、必ずしもそれに納得できるとは限らない。何故なら人間は自分で自身を自己解釈する存在だからである。さりとて人は「私は本当に跡継ぎになるためだけに生まれてきたのだろうか」「もしかしたらもっと別の目的があるのではないだろうか」などと考え悩み、これをサルトル「人間は自由の刑に処せられている」と表現したが、将来的に私がフリーターになるのか、会社員になるのか、総理大臣になるのか、それは予め定められている訳ではない。私は自分自身を客観的に見ても、「それが世界とどのように関わる存在になるのか」という理解を確定させることができない。私には「私は世界とどのように関わるかという図式」は与えられていないのである。

このように、人間はその存在目的を定められないまま、物心がついた時には既に世界の中に存在している。客体とは違い、主体である人間は自分で自身を自己解釈するが故にその存在理由は定まらないのだ。

サルトル「人間は自由の刑に処せられている」と表現したこと、このような存在の在り方そのものをハイデガーは実存と呼んだ。しかし私が「実存」と呼んでいるものは、謂わばこの「自由の刑」が解決されている状態のことを指している。より慣用句的な意味での「実存」である。

私の指す「実存」とは、「何らかの図式の中で何らかの向きに方向付けられており、今自分はその方向に進んでいると実感できているような存在状態」ということを意味する。もしハサミに意志があるならば、「紙を切っている」とき、ハサミは実存を感じているに違いない。ハサミは解釈によって「ハサミは紙を切るもの」という図式を与えられ、それによって「紙を切る」向きに方向付けられているからだ。私たちは生まれた時から既に「将来は何になるか」という解釈は与えられていない訳だが、子供から大人へと成長する過程で「私とはこういう存在である」というアイデンティティを獲得し、その通りに生きているとき、人は実存を感じると言えるだろう。

わかりやすく言えば、実存とは、「自分の存在に意味を感じてられている状態」のことである。人は、自分のことを「日本一のサッカー選手になる人間」だと思えば、サッカーの練習を通して実存を感じるかもしれない。「誰にも迷惑をかけない存在になる」と思っている人は、引きこもるということに実存を感じるかもしれない。人は、自ら解釈するところのものであろうとする。自分が考える「自分」の姿を実現しようとする運動、それが実存だと言って差し支えない。人は、自ら解釈するところの「自分」に向かって、常に方向付けられているのである。

 

このような「実存」と「自己実現」は、似た概念であることを申し添えておく。
自己実現とは、その人が自身の可能性を最大限発揮することを指す。ここに於ける可能性とは、たとえば、ハサミにとっての「紙を切る」ということや鳥にとっての「空を飛ぶ」というものである。繰り返すが、ハサミを見れば「紙を切る」という可能性を思い描き、羽を見れば「空を飛ぶ」という可能性を思い描くように、私たちはあるものを見ると「それが未来のある可能性の中で、どのように世界との関わるか」という図式を通して理解する。

そして、それは自分自身についても同様である。自分、及び自分の中に既在する様々な要素それぞれについて「それが未来のある可能性の中で、どのように世界との関わるか」という図式を通して理解しようとする。ある人は「自分が女性である」ということから「将来は子供を産み育てる」という可能性を思い描くかもしれない。また、ある人は「昔から絵を描くのが好きだった」ということから「絵描きになる」という可能性を思い描くかもしれない。そして、このような可能性に向かって行動し、それを実現しようとすることを「自己実現」と呼ぶ。ここに於いて自己実現とは、「実存」の一種だと捉えることができよう。

実現と生存を対立させることで、理解しがたい幾つかの現象は整理しやすくなる*2。チューブにつながれてベッドに寝ているだけでも、生存自体は可能である。精神科であれば、まさに数十年前までは「薬漬け」と呼ばれる状態が横行していた。現代でも、自殺や自傷の恐れがある患者に対しての議論はあるものの、身体拘束の使用が行われているのが実のところである。

こういった行為が問題になったのは「患者はモノではない」からである。患者を一人の人間として扱うようなケアへの転換が行われてきたが、これはまさに患者がどのように解釈されるかを巡る争いなのだ。

私たちはモノではないがゆえに、私がどのような存在になるか、ということに悩まざるを得ない。それが所謂「承認欲求」の問題であり、「コミュニケーション」の問題なのである。大学生が抱える多くの問題は、私たちがモノではないがゆえに生じる。「モノ」とは、つまり「客体」、「自分から他者や自分を解釈することはせず、他人から解釈されることで存在できるような在り方」のことである。現代の日本は、情報も、資源も、いざというときのセーフティネットが揃っている。もし完全に社会や制度が期待する通りに生きることができるならば、生きていくだけには困らないだけの制度は整っているはずではないか。それでも、それでも私たちが生きづらいのは、社会の期待する通りに生きることが困難だからつらいのであろう。そのつらさを言語化するには、「私」を巡る解釈の争いに目を向けなければならない。

一方で、もし本当に「モノ」になりきってしまおうとすれば、それはそれで楽であろう。モノ、すなわち客体になってしまえば、「私」という存在の解釈は他者によって決定される。その他人からの解釈に従うだけでよい。「私」という個の解釈は一意に定まる。このような在り方が所謂「依存」や「嗜癖」である。たとえば、相手からの期待に応え続けようとするだけの存在になることは依存の一種である。相手の期待のままに動くだけの「人形」になるのだ。これは、何らかの解釈を与えられ、その解釈によって方向付けられる向きに進んでいるという点で間違いなく「実存」なのだろう。

ただ、このような生き方は生存には向いていない。「人形」は守ってくれる人がいなければ生きていけない。自分の利益は自分で守るということが必要である。様々な他者から自分に投影される解釈の中で、自分に有利に働くものだけを選択し、それ以外を突っぱね、自分で自分を解釈していかなければ、生存は難しい。

 

別の視点から、実存と生存の対立について述べてみる。
実存に於いて、命とは「別の目的のために消費されるべきもの」であり、生存において、命とは「目的そのもの」である。たとえば「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」*3という言葉があるが、これは端的に実存と生存の対立を表している。この言葉に従えば、武士道とは、忠義のためならいつでも自らの命を捨てる覚悟のことであろう。このような覚悟、武士道を持って生きるならば、その人は常に自分の目指す目的に向かって人生を生きることができるに違いない。その人はまさに「武士」として己の在り方を定義している。仕える先の人から「武士」として使われること、場合によっては武士として「使い捨てられること」にこそ、意味(武士道)を見出している。これこそは「実存」に他ならない。

その一方で、これは明らかに「生存」には反している。「これのためになら命を捨ててもよい」というような「価値」を持つことは、生存には不利に働く。生存において、命よりも高次の目的は存在し得ない。もし命よりも高次の目的を持とうとするならば、それは「生存の障害」と呼ぶべきものである。たとえば、それが「償い」という価値を目指したものであっても、「自殺企図」は「障害」として扱われるだろう。

ここで「紙を切れなくなったハサミ」について考えてみたい。ハサミは紙を切るために作られ、生まれてきたが、いずれは刃こぼれし、紙を切れなくなる。このようなハサミが、もし「生き残っていく」としたら、一体どうすればいいだろうか。一つの答えとして、「別の使われ方をする」という方法がある。釘を打つ、定規代わりに使う、といった具合だ。あまり用途は少なく、そのために作られたものに比べれば数段劣るが、それによって生き延びていくことは可能かもしれない。

生存とは、まさにこのような在り方なのだ。生き残るためなら「紙を切るためのもの」という「自分の定義」「自分に与えられていた解釈」「自分の目的」を捨て、別の定義に書き換えられることも辞さない。「実存」とは、「自分とはこういう存在である」という自分の定義を手に入れ、それに従って生きることであったが、「生存」では、自分の定義を常に書き換えていかなければならない。

哲学の思考実験で「人間の身体を少しずつ入れ替えていったら、どこまで自分の身体と言えるのか」というもの*4がある。髪をカツラに変える。腕を義手に変える。足を義足に変える。肝臓を移植される。心臓を取り換える。脳を取り換える。しかし、何もしなくても私たちの細胞は常に置き換わっている。

私たちの生存とは、常にこのような在り方だと言えよう。「生き残る」ためなら、今までの自分を構成していた解釈を常に取り換えることが必要である。たとえどれだけサッカー選手になりたいと思い描き、どれほど自分のことを「サッカー選手になる」という未来と共に理解してきたのだとしても、生きるためならばサラリーマンになるしかないのかもしれない。私たちは生きるために、常に自分の「実存」の一部を取り換えているようなものである。

 

ある他者によって一つの解釈に定められるような存在(概念)、固定的で不変の存在*5になりたいと希う時もある。しかし人間であるからには、一つの解釈に決定されるものではなく、相反する様々な解釈に晒され、その揺らぎの中で自分を定義していく必要がある。

実存/生存という障害の分け方を使うことで、実存のために固定の一つの解釈にしがみつこうとする「私」と、一方で生存のために別の多様な解釈を受け入れざるを得ない「私」の、二極に引っ張られる私の揺らぎを捉えることができるのだ。それゆえ「社会に適応する」とは、生存することと実存することが一致するような「解釈」を得られるようになること、と定式化することもできよう。

たとえば、「父親」という役割において「私は自分の子供を大人になるまで育てるために頑張る」という自己解釈は、子供が大きくなるまで自分が生存することを必要とする。実存のために生存が必要であるならば、それは実存と生存の対立が弱まることになる。

現代社会において、生存するためには「お金を稼ぐ」という営みが必要不可欠である。これについて「社会の一員」として、或いは「社会に貢献する」という自己解釈は、労働しお金を稼ぐこととを通じて実存を可能にし、「実存」と「生存」の対立を弱める。また社会的に容認されるお金のかからない趣味を持つことも、生存と対立することなく実存を達成できる点で、生存と実存の対立に貢献するかもしれない。

 

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Shirin Neshat "Rapture"

 

 

〈関連〉

 

 

〈参考〉

マルティン・ハイデガー存在と時間』作品社

存在と時間

存在と時間

 

仲正昌樹ハイデガー哲学入門-「存在と時間」を読む』講談社

サルトル実存主義とは何か』人文書院

実存主義とは何か

実存主義とは何か

 

サルトル『主体性とは何か?』白水社

主体性とは何か?

主体性とは何か?

 

木村敏『自己・あいだ・時期-現象学的精神病学』筑摩書房

*1:「即自存在」-「対自存在」という概念による説明もあるが、私がこの説明を好まないためここでは避ける。

*2:事実、「リカバリー」概念などを巡る精神保健分野の障害学の歴史は、まさに実存と生存の対立だったと言ってよい。

*3:佐賀藩士・山本常朝によって口述された武士道書『葉隠』の一節。

*4:所謂「テセウスの船」のこと。

*5:たとえば「夫婦」や「恋人」など、「大切なもの」や「確かなもの」と形容し得る諸々のこと。