『JK』考

あさ かじかむ指先
にぎるハンドル
スカートの中を
通り抜ける空気

重たい瞼をあけて
明け方の街走る女子高生
冷えきったサドルが
発育途中の身体震わせるの

顔や身体 骨の形
足のはやさ あたまのよさ

なにからなにまで
違うもの同士 こうして
同じ衣装身にまとって
同じ箱の中で
整列した机・椅子に座り
なにか学んでいる
なにかを学んで
気づけたものが勝者
その他敗者
毎朝同じ同じルート・ループ
ぐるぐる回ってんの
気づいちゃったわたしは
校則からの拘束
遠のく王国から
逃げ出すように
歯向かってる自分勝手

明日はだって来ちゃうでしょう?
逃げ出すように春に向かってる

春はなんで来ないんだろう?
私の制服は桜と共に散る

重たい瞼をあけて
夕方の街走る女子高生
冷えきったサドルが
発育途中の身体突き刺すの

DAOKO 『JK』 より引用

この曲が示唆する「JK」から飛び抜けた「私」のJKという存在への執着と憧れに惹かれた。もちろん僕は平々凡々なDKだったので「やばいJKまじかわいい」とかそういう話をする高校時代しか過ごしてこなかった訳だけれども、この曲を聴いていると不意にあの頃を思い返させてくれる。

高校を卒業してからずいぶんと長い時間が経ったと自分では思っていたけど、ちゃんと数えてみればほんのわずかな間だった。もちろん1週間前とかそういう訳ではないが、人生の中で見ればわずかとしか言えないような時間しか経っていない。僕はたしかに文科省の定めるところの高校の課程を修了したし、卒業もした。けれども僕が高校生としての行いを終えられているかといえば、自信をもってはいと答えられないのが実際なのだ。

高校という場所はなかなか不思議な場所で、見た目も中身も頭の中も全部違う人たちが、似たような格好をして一つの空間に放り込まれ、同じことを刷り込まれる。毎日少なくとも8時半から15時半まで、他人が1つの場所にわざわざ集まって共同体を形成する。過去は美化されるというけど、それにしてもあのキラキラとした純粋さは一体何だったのだろう。大学に入ってからはますます心が汚れるばかりな僕にはあの高校時代があまりにも眩しすぎる。

高校生であるというのはそれはそれは有利で、何よりまず娯楽が安い。映画が特に安い。酒や煙草を嗜むことがないからその類の嗜好品にお金がかからない。制服を着れば「身分」を簡単に得ることができるし、学内であっても何かしらの「地位」もまた凡そ得られる。高校生としての行為は、おそらくこの「身分」に立脚していると思う。高校時代の僕は、一端の学校の中での何者かではあった。僕を示すものは名前と所属以外にもあって、それは高校生という共同体の中で僕を十分に特徴付けてくれた。また、社会の中で「制服」は自己を特徴付ける最も有用なものだった訳だ。そして、その何者かとしての儚い行いこそが高校生としての行いだったのではないかと、今になって妄想している。

その一方で大学はどうか。大学構内を歩いていて、もし自分が有名なサークルの幹事長であったとして、それを名乗られずに気付く人がどれだけいるだろうか。たとえ体育会野球部のエースが歩いていたってほとんどの人は気付かないだろう。大学は、誰もが何者でもいられない空間なのだ。言ってみればみんなが路傍の石で、構内ですれ違うはちゃめちゃにかわいいJDと僕は同じく他者であり、お互いに何者でもないのだ。ただ、キャンパス内であればある程度大学生だと認識はされるが、一度構内から出てしまえば自分が大学生であること、ましてやどこどこ大学の学生であるなんてことはわかりっこない。つまり、アイデンティティは拡散する一方なのだ。

僕が卒業できないこと、それは自分が「何者か」であるという意識からだ。僕はそれなりに真面目な学生生活を送っていたから、一端の学校という社会の中での地位は有していた。僕は、同級生にとってかけがえのない存在であったと信じているし、僕にとって同級生もまたかけがえのない存在であったし、今でもそう。そんな素晴らしい実存的な交わりを経験してしまったからには、そういう交わりを求めようと試行錯誤し続けてしまう。僕は、高校からは卒業したが、高校生としての意識からは残念ながら未だ卒業できていない。

卒業とは、字義から言えば何らかの行いを終えること、つまり業を終えることだ。しかし、この世の中そうすっぱり終えられる業ばかりではない。人と人とが関わることには全て業が起きるけれど、その業とは人が関わるからこそ終わりのないものになる。何かから卒業するということは、極めて表面的な終わりを示しているだけで、心からの卒業というものは、一種の諦めのような、そんな瑕疵的な自己否定なのかもしれない。

 

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9/8 2:05

について思うこと

意味とか価値とかは置いとくとして、ここまで一人で到達するのは本当に苦労した。

その苦労に見合うだけの価値を、自分はできるようになったとしても、自分自身に見出すことができないかもしれないという不安が付き纏う中、それでもできるところまで突き詰めていくという作業(練習ではなく作業)は精神をすり減らすには十分過ぎた。

作業をしている最中にその種の無力感に襲われながら、この1年間やってきた。もうこれで終着点だ。これ以上、自力で進める道はない。行き着く先が頂きではなく、それ以上登ること不可能な崖だということがわかっていて、手を引いてくれる人もいない中、何とか進んで最後の詰めまで来た。

終着点に寝転んで、そこから見えるのは、この方法では絶対に超えることができない断崖。ただそれだけ。だが、十分。これで十分だ。よくここまで来た。価値があるのか意味があったのかよくわからない。だが、本当によくここまで来たと思う。

 

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9/5 10:15

『打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか?』を観てきました。原作はどれも観ず読まずの状態でしたがとても楽しめました。それで考察と感想と解釈とを書いているんですが、もう書くのが楽しすぎて困る。まだ書き途中で半分くらい書いたかな?これから肉付けして添削と推敲を...って時点で既に2万字オーバーしてるのでおそらく2つか3つに分けることになるかなと。

(9/12追記 考察記事を同人誌に寄稿させてもらうことになったので今冬以降に投稿します)

Twitterでは酷評が多く見受けられとてもびっくりしたので一応言及しておきますが、そもそもこの映画は受動的に観る人向けではなく能動的に観る人向けの映画だと僕は思っています。「受動的に」というのは、『君の名は。』や『時をかける少女』のように何も考えず素直に見て(”観て”ではなく)いても楽しめる、(考察する必要がないくらいに)わかりやすい演出・ストーリー・結末をしているということです。つまり「能動的に」というのは、映像をよく観て、演出・ストーリー・結末について考察して楽しむということ。いや、素直に見ても面白い映画というのはそれはそれで良いと思いますよ。疲れてる状態で観ても楽しいし。ただ、この映画に限って言えばシャフトが作ってますからね。1秒にも満たない一瞬のカットに意味深なシーンや伏線を容赦なく入れてくる会社なんだからなおさらです。何が言いたいかと言うとどうせ観るならその映画を最大限楽しみましょうってことです。「『打ち上げ花火』つまんないらしい」、「『君の名は。』の二番煎じ」、「ストーリーが薄い、声優の演技が合ってない」みたいなツイートが広まってしまったこと、そしてそれを真に受ける人が多すぎたというのがこの作品にとって最大の不幸でしょう。酷評が悪いという訳ではなく、酷評をする人のほとんどが短文かつ誰かの言葉を借りてるだけな意見なんですよね。まあこの話は別記事で散々喚き散らかしているので深くは突っ込みません。

記事を書くにあたって原作映画の『打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか?(1993)』と角川文庫の『打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか?』と映画のパンフレットを観たり読んだりしてるんですが、これまた面白い。考察記事の補足になるかなと思いましたがガッツリ補完になりました。映画を観た人にはおすすめですぜひ。

そんな感じでとりあえず書いてるよってことです。こんな垂れ流し文ですら1000字超えてるんだからそりゃまあ文字数すごいことになるよねって思った。

みんな観よう。

 

www.youtube.com

 

 

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8/26 21:02

『打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか?(2017)』が面白かったよって話